「何のために生きる?」誰もが抱く根源的な問い。人生の意味を探し、自分らしく輝くためのヒントをご紹介します。
「生きる意味って何ですか?」
「私は何者なのか?どこから来たのか?そしてどこへ向かうのか?」
これらの問いは、太古の昔から人類が抱き続けてきた永遠のテーマです。
私たちは生まれ、成長し、やがて死を迎えます。数十年という短い人生の中で、喜びや悲しみ、愛や喪失といった多くの瞬間を経験します。そして、ある日、私たちはこの世を去ります。
塵にすぎないお前は塵に返る。
これほど儚い存在であるにもかかわらず、なぜ私たちはここにいるのでしょうか?なぜ、この世界に生まれ、この「あれこれ」に関わり、最後には消えてしまうのでしょうか?
私たちの存在は単なる偶然なのでしょうか?それとも、何か壮大な意図が隠されているのでしょうか?人生とは一体何なのでしょうか?それは個人の達成、人間関係、社会への貢献、あるいはそれ以上の何かなのでしょうか?
人生の道筋は、個々の選択と行動によって切り開かれるものなのでしょうか?それとも、人生に起こる出来事はすべて、人智を超えた力によってあらかじめ定められているのでしょうか?
こうした疑問は、歴史を通じて多くの人々が考え続けてきたテーマです。そして、この問いに向き合う中で、人々はそれぞれ異なる道を選びます。ある人は宗教を通じて答えを求め、ある人は哲学や科学、芸術、音楽、自然の中にその答えを探します。
これらの道は異なりますが、すべての出発点は共通しています。それは、「自分がこの宇宙の中でどんな位置にいるのか」「自分の存在にどんな意味があるのか」を知りたいという願いです。
どの道を選んでも、勇気を持って進み続ける限り、その旅路はやがて人を変え、新たな人生のページを切り開いてくれることでしょう。
主なアイデアの要約
- 「人生の意味」(英語:meaning of life)または「人生の意義」とは、主観的な概念であり、その定義は非常に難しいものです。一般的には、自分の存在にどれほどの価値や意味があるかを個人がどう感じるかに基づきます。この認識は、多くの場合、個人的な経験、信念、そして価値観の組み合わせから生まれます。
- 人生の意味を考えることは、人間の根源的な欲求のひとつです。この思索は、個人の成長や精神的な回復力(レジリエンス)、さらには精神的な成熟に貢献します。
- 哲学者や宗教指導者、心理学者、芸術家、科学者、そして無数の人々が何世紀にもわたり、「人生の意味」について考え、さまざまな視点を提案してきました。
- 人生の意味は、自分自身の「道」を見つけ、それに従うことにあります。この「道」は、個人の世界観、価値観、人生観の組み合わせによって形成されます。
- 一方で、多くの人が人生に意味を見出せない理由として、無知、自己中心的な考え、成功への執着(執着)、脆弱な価値観、そして現代社会がもたらす影響などが挙げられます。
- 人生に意味を見出すためには、定期的な自己反省を行い、自分自身の「波動」に耳を傾け、新しい経験に心を開き、必要であれば助言を求めることが大切です。
- 人生の意味を探る旅の中では、怠け癖を克服し、既成概念を問い直し、精神面のケアを忘れず、地域社会に貢献し、些細なことにも感謝し、変化を受け入れ、自分自身を受け入れ、好奇心を持ち続け、他人と自分を比較しないように努める必要があります。
- さらに、苦しみの役割を見つめ、それを理解することは、この探求において欠かせない要素です。
(注:本稿で引用している池田大作氏、岸見一郎氏、茂木健一郎氏、江本勝氏の言葉は、英語訳を通して触れたものです。日本語の原著に直接当たれていないため、正確な引用とは言えない部分があるかもしれません。読者の皆様には、その点をご容赦いただければ幸いです。)
人生の意味とは?
「人生の意味」とは、一見シンプルなようでありながら、非常に奥深いテーマです。その中でも特に「意味」という言葉自体が持つ曖昧なニュアンスが、この問いを複雑なものにしています。このテーマについて、哲学者や神学者、さまざまな分野の思想家たちが何世紀にもわたり議論を重ねてきました。
言語学や線形的な思考に興味を持つ私自身、この「意味」という言葉を定義するために言語的・文字に基づいたアプローチを試みました。以下の解釈は不完全かもしれませんが、それでも共有したいと思います。
「意味」とは?
私の研究に基づいて、「meaning」(意味)を3つの主要な観点から考えることができます:
- 記号とそれが指し示すものとの関係 「意味」は、言葉や記号が指し示す現実世界の対象や概念との関係を指します。特に、特定の条件に基づいてその対象や概念を定義することに重点を置きます。
例:「猫」という言葉は、毛が生えた四本足のヒゲのある動物を指します。この場合、「毛がある」「四本足である」といった条件が、記号や発言が真実かどうかを決定します。
- 主観的な思考や態度 「意味」は、特定の記号に関連付けられた内面的な思考や態度を含む場合があります。つまり、私たちがある対象や概念に出会ったときに生じる主観的な連想やニュアンスが、「意味」として理解されます。
例1:「猫」という言葉を聞いたとき、かつて飼っていたペットの猫のイメージや、「かわいい」「夜行性」など、その言葉に関連付けられた特徴を思い浮かべるかもしれません。
例2:「自由」という言葉は、拘束のない状態を連想させるかもしれません。
- 文脈に基づいた使用と意図 「意味」は、人間のやりとりにおける特定の目的を達成するための実用的な機能に基づいて生じるものとも考えられます。
例1:「お腹が空いた」というフレーズは、文脈によって異なる意味を持つ場合があります。長い一日の後で言う場合は純粋に食べ物を欲していることを伝えるかもしれませんが、友人が料理をした直後に言う場合は「ありがとう」を間接的に伝える意図かもしれません。
例2:「バカ」という言葉は、状況や関係性に応じて、侮辱にもなれば冗談にもなり得ます。
「人生」とは?
次に、「life」(人生)という概念について考えてみましょう。一見明確なようで、この言葉はそれぞれの人が経験する膨大な出来事を含んでいます。
人生を広い意味で捉えると、身体的、感情的、精神的な側面を含む人間の体験全体が該当します。それは誕生から死に至るまでの旅であり、喜びや悲しみ、愛や喪失など、さまざまな瞬間が詰まっています。
人間は単なる生物ではなく、意識や感情、抽象的思考能力などの特性を持つ存在です。
「人生の意味」の定義
上記の分析を基に、「人生の意味」は、自分自身の存在に対して与える価値や意義のことを指すと解釈できます。それは個人の経験、信念、価値観によって形成される独自の概念であり、人生の中での発見や選択によって常に変化します。
- 外的な目標や成果に意義を見出す人もいれば(例:特定のキャリアの追求、家庭を築くなど)、行動を導く客観的な真理や原則(例:黄金律、四聖諦、正義や思いやりといった美徳など)に基づいている場合もあります。
- 他の人々にとっては、人生を構成するすべての体験の総和が意味を持つこともあります。自分の内面(例:価値観、信念、潜在能力など)に注意を払い、日々の生活体験に喜びを見出すことが重要です。
- また、自分の人生に対する責任を持ち、自分の価値観や願望に合った選択をすることで、意味を構築していく個人の主体性が強調されることもあります。
このように、「人生の意味」は主観的な概念であり、個人によって異なります。具体的な状況によって、以下のような形で現れることがあります:
- 目的や目標:個人的または職業的な目標を追求すること
- 自己成長:学び続け、自分を向上させること
- 知識:科学や哲学、芸術など多岐にわたる分野で視野を広げること
- 人間関係:家族、友人、地域社会との強い絆を築くこと
- 人類愛:私たちが共有する人間性とすべての生命のつながりを認識すること
- 冒険:旅行や趣味、創造的な表現など人生を豊かにする体験を楽しむこと
- 精神的・哲学的信念:宗教や自然、個人的な内省を通じて宇宙や自分の位置を理解すること
- 他者への奉仕:芸術活動や社会的な活動を通じて社会に貢献すること
「人生の意味」と「人生の目的」
「人生の意味」と「人生の目的」はどちらも人間の存在に関わるテーマですが、「意味」は通常、自分自身の人生に対して与える主観的な価値を指す一方で、「目的」はより客観的で外部から定義された使命やゴールを意味します。
しかしながら、「目的」は「意味」を形成する上で重要な役割を果たすことが多いのです。
人生の意味を考えるべき理由
人生の意味を知りたいという欲求は人間性の一部だ
人間はあらゆる物事に意味を求める存在だ。私たちはパターンを見つけるのが得意すぎて、存在しないものまで見つけてしまう。
ショーン・デイビット・ハッチンソン
この言葉の通り、人生の意味を知りたいという欲求は、人間の本質に深く根ざしています。この世界で遭遇するすべての物事に対し、「なぜ?」という問いを抱くのが私たちです。
人生を通じて、人間は常にパターンやつながり、そこに隠された意味を探しています:
- 教育を通じて、量子物理学から人間心理学まで、多岐にわたる分野で世界への理解を深めようとします。
- 説明のつかない事象に対して、物語や神話、理論を考案します。
- 芸術や音楽、文学を通じて自己表現をし、他者と感情的に共鳴しようとします。
- 表面的な付き合いよりも、家族や友人、恋人との深い関係を求めます。
以下に、2024年10月時点のGoogle検索における「人生の意味」や関連キーワードの月間検索件数を示します(世界全体と日本のデータ)。
Google検索データによると、「meaning of life」に関連する検索語が驚くほど多いことがわかった
「人生の意味」の月間検索数
驚くべきことに、「人生の意味」というキーワードだけでも、月間検索件数は世界全体で6万件以上。そして、「生きがい」や「人生の目的」「生命の起源」といった関連トピックを含めると、その総数は約150万件に達します!日本だけでも、「人生の意味」の月間検索件数は平均で1,900件、関連クエリを含めると約18,000件にも上ります。
さらに、これはGoogleのデータに限った話であり、BingやYahoo、DuckDuckGoといった他のプラットフォーム、そして日々このテーマについて静かに思索している人々は含まれていません!
(画像ソース:Quora)
ここで疑問が湧きます:なぜ、私たちは「人生の意味」にこだわるのでしょうか?
科学的研究によると、1つの可能な説明は、人間の脳が持つ、将来の長期的なニーズを計画する能力に関係しています。未来が不確実である以上、道しるべとなる価値観――道徳、宗教、イデオロギー的な信念を持つ必要があるのです。
しかし、未来の計画だけが理由ではありません。現実認識を歪める認知バイアス(例:「制御の錯覚」や「未知への恐怖」)が、実際には存在しないパターンを求める行動を引き起こします。例えば、スポーツ選手が「勝負運をもたらす靴下」を試合ごとに履くのもその一例です。
また、存在や死に関する問い(例:「自分とは何者か」「死後に何が起きるのか」)に起因する実存的不安も、「人生の意味」を求める一因です。これらの問いは、成熟期や親しい人を失った時など、人生の転機や危機に際して生じることが多いです。宗教や哲学、社会的な目的を通じて答えを探すことは、この不安を和らげ、不安定な世界の中で安心感とコントロール感を得る方法の1つです。
上記の理論に基づけば、「人生の意味」を見つけることは、生存上の利点をもたらします。特に困難な時期に、不確実性に対処し、自分の限界を突破する助けとなるのです。
科学的説明に加えて、多くの学者がより「人間性に基づいた」アプローチを提唱しています。彼らは、意識、創造性、倫理的思考といった人間特有の資質を強調します。彼らによると、「人生の意味」を求める衝動は、自分の限界を超え、より大きな全体の一部になりたいという願望に根ざしていると言います。
芸術表現、奉仕活動、儀式、スピリチュアルな実践を通じて、私たちが追求しているのはどれも同じ動機です。それは、自分の現実の感覚を拡大し、その結果として幸福感やレジリエンス、そして心身の健康を高めることです。
意味のある人生とは、それ自体を超えた何か、あるいは何らかの価値とつながることで成り立つ。
ロバート・ノージック
どの視点があなたに共鳴するにせよ、私たちは次の結論には同意できるのではないでしょうか:
「人生の意味」を探求することは、人間の根本的な性質の一部であり、すべての人に共通する内なる呼びかけです。それは、より完全に生きるための手助けをしてくれるものです。
まだ考えたことがないという方は、ぜひ今この瞬間から始めてみてはいかがでしょうか?
理由ですか?
それは、この探求を通じて得られる多くのメリットがあるからです(この後で詳しくご紹介します)。
人生の意味を探る旅は、真の豊かさにつながる
死なない程度の苦労はあなたを強くさせる。
フリードリヒ・ニーチェ
人間は本質的に好奇心旺盛な存在です。私たちは周囲の世界やその中での自分の位置を理解したいと願い、問いを投げかけ、答えを求め、新しいアイデアを探求します。この「人生の意味」を求める旅こそが、私たちに既存の価値観を見直し、視野を広げ、新しい視点を受け入れる機会を与えてくれます。
しかし、その旅路では、必ずと言っていいほど障害や挫折に直面します。けれども、それこそが成長の引き金となるのです。私たちはその過程で適応し、学び、進化する力を身につけます。
答えを探すことが必ずしも楽しいとは限りませんが、その旅の果実は「自己認識」という形で実を結びます。それは、自分の強みや弱点、可能性、そして自分だけが持つ貢献をより包括的に理解することを意味します。この理解を通じて、内面にある核に沿った、より意識的で本物の選択が可能となります。そして、それが自己実現や満足感をもたらします。
人生の意味を知ることと、豊かさの間には明確な相関があります。たとえば、「Journal of Health Psychology」に掲載された研究によると、強い目的意識を持つ人は、より幸せで健康であり、ストレスに強い傾向があります。このような人々はうつ病や不安症、慢性疾患に悩まされる可能性が低く、規則正しい運動やバランスの取れた食生活といった健康的な行動を維持しやすいのです。言い換えれば、人生の意味を知ることは、長寿や早期死亡リスクの軽減につながります。
ありのままの姿を見せた時人は成長する。
アントン・チェーホフ
人生の意味
有意味さの感覚は、人生の浮き沈みを乗り越えるのに役立つ
生きる理由を持つ者は、ほとんどどんな生き方でも耐えることが出来る。
フリードリヒ・ニーチェ
現代社会では、自殺、過労死、過労自殺のような問題がますます深刻化しています。これらの問題の原因は多岐にわたりますが、根底には「目的の喪失」があると言えるのではないでしょうか。
人生で本当に大切なことから切り離された感覚を抱くと、人はストレスや絶望に屈しやすくなり、最終的には死を逃避の手段として選ぶこともあります(それほど深刻でない場合でも、過度なカフェイン摂取、飲酒、ビデオゲーム、ゴシップ、夜遊びなどに依存する傾向が見られます)。
一方で、人生の意味を持つことは、こうした苦しみに対する強力な解毒剤となります。生きる理由や目標、あるいは信念を持つことで、困難な状況を乗り越える力が生まれます。
ホロコーストの生存者で精神科医のヴィクトール・フランクルは、その著書『夜と霧』の中で、アウシュヴィッツ強制収容所で目撃した「意味を持たない人生」の影響について語っています。持ち物も尊厳も希望も奪われた多くの囚人は、最終的に絶望し命を落としました。その多くは飢えや病気ではなく、「意味の喪失」が原因だったのです。
一方で、フランクル自身は妻との再会を思い描き、戦後には収容所で得た心理学的な教訓について講義をすることを夢見て希望をつなぎました。この小さくても儚い目的意識こそが、彼を最も暗い時代に生き延びさせたのです。
この経験から、私たちは「生きるための何かを持つこと」の重要性を学びます。それがあれば、どんな逆境の中でも前向きな心を保つことができます。
オー・ヘンリーの短編小説『最後の一葉』をご存じですか?この物語では、肺炎にかかった画家のジョンジーが希望を失い、窓の外のツタの葉がすべて落ちたときに自分の命も終わると信じ込む場面が描かれています。その様子を見たもう一人の画家ベアマンは、ジョンジーの命を救おうと嵐の夜に外へ出てツタに葉を描き足します。その「最後の一葉」が落ちなかったことで、ジョンジーは再び希望を持ち、病気を克服します(ただし、ベアマン自身はその行動が原因で命を落としました)。
このように、人生の意味を持つことは、人の生死を分けるほどの力を持ちます。
個人のレベルでは、自分にとって何が心に響くのかを積極的に探求し、時には社会的規範にとらわれず行動する勇気を持つことが求められます。つまり、「嫌われる勇気」を持って、自分らしく幸せに生きるのです。
人間からすべてを奪おうとしても、ひとつだけ奪い尽くせないものがある。 それは、どのような環境を与えられようとも、その中で自分の態度を選び、自分自身の生き様を選ぶという、人間に残された最後の自由である。
ヴィクトール・フランクル
人生の意味を探る旅は、精神的な成熟への道を開く
これさえも過ぎ去っていく。
ペルシャのことわざ
人生の意味を追い求める中で、私たちは避けられない真実と向き合うことになります。それは「人生の無常」という事実です。一見受け入れ難いこの真実こそが、成長と成熟の重要な一歩となります。
存在のはかなさを理解したとき、私たちは物質的な財産や一時的な快楽から、より永続的な価値へと意識をシフトさせるよう促されます。本当の豊かさとは、外面的な「栄光」ではなく、思いやり、感謝、そして知恵といった内面的な資質にあるのです。
どれだけ多くの財を築いたとしても、この世を去るときにそれを持っていくことはできません。死後の世界についての見解が何であれ、この事実には誰もが同意できるはずです。
それゆえ、本当に重要なのは、個人の存在を超えて残るものです。それは人とのつながり、経験、そして社会や世界への貢献といったものです。
意味のある人生は、自己を超えた何か、たとえば崇高な存在、自然、または人類全体とのつながりによって特徴づけられます。このつながりは困難な時に心の慰めをもたらすだけでなく、思いやりや寛容さ、そして寛大な行動を促します。それにより、私たちは他者の価値や苦しみを認識し、人間らしい行動をとるようになります。
同時に、怒りや恨み、恐れといった負の感情を手放すことが奨励されます。それらはただ私たちのエネルギーを奪い、精神的成長を妨げるだけだからです。
結局のところ、すべては過ぎ去るものです。そして私たち人間には、どのような状況であれ「どのように行動するか」を選ぶ力が備わっています。
怒りや憎しみに身を任せる代わりに、私たちは忍耐と品格をもって行動する選択ができます。この独自の能力こそが、人間を他の生物と区別し、社会のバランスを保つ原動力となります。
人生の意味
黒澤明監督の映画『生きる』では、主人公の渡辺勘治が、単調な官僚生活に失望しながら日々を過ごしています。ある日、彼は末期の癌で余命6カ月と宣告され、これまでの「ミイラのような」30年間の人生の空虚さに向き合うことになります。
この存在の危機が、彼に深い精神的覚醒をもたらします。渡辺は残された時間を地域のために捧げることを決意し、子供たちのための遊び場を建設するプロジェクトに取り組みます。
官僚的な障害や個人的な困難に直面しながらも、彼は揺るぎない決意で取り組み続けます。権力者たちが無関心や抵抗を示しても、彼は怒りに駆られることはありません。
わしは人を憎んでなんかいられない。わしには、そんな暇はない。
渡辺の自己への執着からの解放とその不屈の精神は、人生の意味の持つ変革力を象徴する素晴らしい例です。
私たちの地上での時間は非常に短く、もし負の感情にとらわれてしまえば、その時間はさらに短くなります(これは科学的研究でも実証されています)。毒のある感情を手放さないことは、無駄であるだけでなく、愚かな行為と言えるでしょう。
死の現実と不可避性を認識すると、私たちは永遠を探し、人生の一瞬一瞬を最も価値あるものにしようと決意する。(When we are cognizant of the reality and inevitability of death we begin to seek the eternal, and become determined to make the most valuable use of each moment of life)
池田大作
人生の意味に関する視点
古代哲学
西洋
簡単すぎる人生に、生きる価値などない。
ソクラテス
古代ギリシャの哲学者ソクラテスとプラトンは、人生の意味に関する深い洞察で知られています。ソクラテスは、人生を意味あるものにするには、自分の信念や行動を絶えず振り返り、問い続けることが重要だと説きました。彼は、知恵を追求することこそ人間の究極の目的であり、真の幸福は徳に基づく生き方を通じてのみ得られると考えました。
ソクラテスの教えを基盤に、プラトンは人生の意味は「善」、「正」、「美」を追求することにあると提案しました。彼の「イデア論」によれば、この物理的世界を超越した永遠かつ完璧な「イデア」が存在します。この「イデア」を理解し、それに沿って生きることで、人間はより高次の存在へと「昇華」できるとされています。
一方、アリストテレスは、人間の究極的な目標は「エウダイモニア(Eudaimonia)」、すなわち人間の繁栄にあると主張しました。エウダイモニアとは一時的な幸福ではなく、卓越した生き方、潜在能力の発揮、そして社会への積極的な貢献を通じて得られる持続的な幸福の状態です。この状態に至るには、勇気、節度、正義、知恵といった徳を実践し、理性を働かせることが求められます。
幸福とは人生の意味であり、目的である。すなわち、人間存在の全ての目標であり、終着点だ。
アリストテレス
また、ストア派の哲学者たちは、人生の意味は自然や他者と調和して徳をもって生きることにあると考えました。彼らの主張は以下のような内容を含みます:
- 世界の現実をそのまま受け入れること
- 自分の行動を宇宙の秩序に従わせること
- 宇宙の中での自分の役割を認識すること
- 人類や次世代のために貢献すること
東洋
古代中国では、孔子とその弟子たちが、良い人生とは自己改善だけでなく、集団の幸福への貢献を通じて成り立つと説きました。徳を実践し、社会規範を守ることで、人は宇宙の秩序(天)と調和し、究極の意味を見出せるとされています。
孔子の哲学の中心には、「五常」があります:
- 仁(じん): 人に対する思いやり、慈悲の心。他者を思い、その立場に立って物事を考え、行動することです。
- 義(ぎ): 正義、道義。自己の利益を優先するのではなく、道義に基づいて行動することです。
- 礼(れい): 礼儀、作法。社会生活において、相手を尊重し、秩序を保つための行動規範です。
- 智(ち): 知恵、知性。物事の道理を理解し、正しい判断を下す能力です。
- 信(しん): 信用、誠実。約束を守り、誠実に生きるということです。
このほかにも、「君子」に求められる多くの理想が存在します。例えば:
- 孝(こう):単なる親への従順だけでなく、親を敬い、その教えを心に刻み、親の幸せを願い、親のために尽くすこと、そして親の死後もその霊を敬うことを意味します。
- 「修身齊家治國平天下」:儒教の重要な概念の一つです。「天下を平和にするためには、まず自分自身を磨き、次に家庭を良くし、そして国家を治める必要がある」という、道徳的な理想を示しています。
知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。
孔子
宗教
- 一神教
一神教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)では、人生の意味は神への信仰と来世への希望を通じて理解されることが一般的です。キリスト教徒は、神を知り愛すること、そしてその教えに従って生きることが人間の究極の使命だと信じています。これは愛や赦し、思いやりといった徳の実践を含み、祈りや礼拝を通じて神との関係を築くことを目指します。
- ヒンドゥー教
ヒンドゥー教では、「ダルマ(Dharma)」という概念が中心です。ダルマは道徳的義務を指し、個人のカースト、人生の段階、個々の状況に応じて異なるとされています。ヒンドゥー教徒は、ダルマを全うすることで輪廻(サンサーラ)から解放され、神聖との合一(モクシャ)を達成できると信じています。
- 仏教
仏教では、人生の意味は「苦しみ」の概念と密接に結びついています。苦しみの原因となる欲望や執着から解放されることが、仏教における究極の目標とされています。これには、「四諦」や「八正道」の実践が必要であり、瞑想や倫理的行動を通じて達成されます。
特に禅では、知的理解ではなく直接的な経験や直感を重視します。
人間の人生には意味も理由も選択肢もありませんが、実践を通じて真の自己を理解することができます。そして、意味のない人生を『大いなる意味』、つまり『大いなる愛』へと変え、理由のない人生を『大いなる理由』、つまり『大いなる慈悲』へと変えることができます。
スン・サン禅師
これらの思想や宗教はそれぞれ異なる信念や実践を持っていますが、共通点も多く見られます:
- 家族やコミュニティとの人間関係の重要性
- 自分を超えた何かとのつながり
- 倫理の価値
- 知識と知恵の追求。現実や自己、神聖の本質を理解することは、意味ある人生を築く鍵とされています。
現代の哲学
ニヒリズム
ニヒリズム(虚無主義)は、極端な形では「人生には本質的な意味がない」という考えを提唱します。フリードリヒ・ニーチェをはじめとする哲学者たちは、現代社会において伝統的な価値観や信念がその重要性を失ったと指摘しました。また、ショーペンハウアーは、この世界は根本的に非合理で苦しみに満ちているとし、「自らの意志を否定し、欲望を減らし、超然とした態度を養うべき」と主張しました。
どのような運が降りかかろうと、喜びに浮かれることのないように、悲しみに暮れることのないように、万物は流転し、そして運もまた、いつ変わるとも知れないのだから。
アルトゥル・ショーペンハウアー
一見すると悲観的な見解のように思えますが、現代の研究者の中には、ニヒリズムを自己の価値観や目的を見出すきっかけと捉えるべきだと考える人もいます。
人生の意味や道徳は、自分自身の中から生まれる。強い人間は実験し、リスクを冒すことで自分を拡張していくのだ。
フリードリヒ・ニーチェ
不条理
20世紀中頃に登場した不条理主義は、人間が秩序を求める欲求と、混沌として無関心な宇宙との間に存在する対立を扱います。代表的な思想家であるアルベール・カミュは、人間の存在は本質的に「不条理」であり、内在的な意味を持たないと論じました。
とはいえ、カミュはニヒリズムを支持したわけではありません。むしろ、不条理を受け入れながらも、それに対して反抗する生き方を提案しました。つまり、決められた道にこだわらず、人生を最大限に生きることに専念すべきだという考えです。
カミュは、質的な経験よりも量的な経験を追求することを勧めました。究極的な真実が得られない世界においては、たとえ一見些細なことであっても、読書や家族との時間、旅行や芸術創作など、あらゆる経験に積極的に取り組むべきだと説いています。
人生の意味は、自分が自殺しない理由となるもの、つまり今やっていることそのものだ。
アルベール・カミュ
実存主義
セーレン・キェルケゴールやジャン=ポール・サルトルといった哲学者たちは、個人の自由と責任の重要性について詳しく論じました。彼らは、たとえそれが困難に思えるとしても、最終的には人生の意味を創造する責任が個人にあると主張しています。
人生は解決すべき問題ではなく、経験すべき現実である。
セーレン・キェルケゴール
ヒューマニズム
ヒューマニズム(人文主義)は、人間の能力と可能性を強調する哲学的立場です。ヒューマニストたちは、理性や共感、社会正義の重要性を説き、行動や社会への貢献を通じて人生の意味を創造できると考えています。
人生の意味は、ここにある今をできる限り豊かに、勇敢に生きることです。他者と経験を分かち合い、自分を大切にするように他者を大切にし、この世界をより良い場所にする責任を受け入れることです。
ジェームズ・ヘミング
心霊主義
現代の心霊主義(スピリチュアリズム)は、魂や霊、エネルギーの場など、物理的な次元を超えた領域の存在を信じる思想を指します。瞑想、ヨガ、エネルギーヒーリングといった実践を通じて、より深い目的意識を見出せるとされています。
心理学
精神分析学
ジークムント・フロイトによって始まり、カール・ユングによって拡張された精神分析学は、無意識が行動や意識に与える影響を研究します。ユングが提唱した中心的な概念の一つが「個性化(インディビデュエーション)」です。
個性化とは、意識と無意識の側面を統合する複雑な心理的発展のプロセスであり、自己実現と完全性を目指す生涯にわたる旅です。ユングによれば、人生の意味はこの個性化のプロセスそのものにあります。無意識の深みに入り、影の側面に向き合うことで、隠された可能性を発見し、自己理解や世界での役割について深い洞察を得ることができます。
あなたが潜在意識を意識化するまで、それはあなたの人生を指図し続けます、そして、あなたはそれを運命と呼びます。
カール・ユング
人間性心理学
エイブラハム・マズローに代表される人間性心理学は、人間の可能性、個人的成長、意味の追求に重点を置いています。マズローは、人間が基本的な生理的ニーズから自己実現に至るまでの欲求の階層に駆り立てられると提唱しました。
個人心理学
個人心理学の創始者であるアルフレッド・アドラーは、人生の意味は「見つけるものではなく、創り出すもの」だと考えました。アドラーは、共同体感覚(共同体の一員としての意識)の重要性を強調し、社会的関係を築き、社会の発展に貢献することを通じて人生の目的と充実感を見いだせると述べています。
人生の意味は他者への貢献にある。
アルフレッド・アドラー
実存心理学
実存心理学は、人間の経験と存在との向き合い方を探求します。ヴィクトール・フランクルはロゴセラピーという治療法を開発し、価値観や人間関係、社会への貢献を通じて、どんな困難な状況でも生きる理由を見つけられると主張しました。
ポジティブ心理学
新興分野であるポジティブ心理学は、人間が繁栄するための強みや美徳に焦点を当てています。この分野の主要人物であるマーティン・セリグマンは、勇気、正義、知恵といった特性が意味ある人生に寄与する鍵だと指摘し、それらの特性を育むことが重要だとしています。
現代的視点
近年、臨床心理学者のジョーダン・ピーターソンは、「苦しみが無意味になるほど意味深い生き方」を見つけることの重要性を提唱しています。苦しみを受け入れ、自分の限界を認識し、真実、秩序、責任を体現することで、それが可能になると述べています。
引き受ける責任が多ければ多いほど、人生は意味深くなる。
ジョーダン・ピーターソン
芸術
歴史を通じて、芸術は人間の存在に関するメッセージを伝えるための強力な媒体として機能してきました。文学の分野では、フランツ・カフカ、フョードル・ドストエフスキー、アルベール・カミュといった作家たちが、人間の精神、アイデンティティ、不条理、疎外といったテーマを掘り下げてきました。
- 『地下室の手記』:ドストエフスキーのこの小説は、社会から疎外された一人の男の物語を通じて、ニヒリズムや自由意志、人間の心理的深淵について問いかけます。
- 『シーシュポスの神話』:カミュは、この作品の中で、不条理という概念を探求しています。混沌とした世界の中で意味を求める人々の葛藤を描いています。
- 『アンナ・カレーニナ』:単なる恋愛小説にとどまらず、トルストイの『アンナ・カレーニナ』は情熱や社会的期待、個人的充足の物語であり、登場人物たちは常に道徳的ジレンマや選択の結果に直面します。
また、詩もまた、人間の条件について考察するための感情を喚起する力強い芸術的手段の一つです。ルーミー、ウィリアム・ワーズワース、ジョン・ダン、エミリー・ディキンソンといった詩人たちは、愛、喪失、喜び、悲しみ、現実の本質といったテーマを探求した多くの作品を残しています。
心がひとつ壊れるのを
もしも私が止められるのなら
私が生きるのも無駄ではない
命がひとつ痛むのをやわらげ
あるいは苦しみをひとつ静めることができるなら
気を失った鳥を
もう一度巣にもどしてやることができるなら
私が生きるのは無駄ではないエミリー・ディキンソン
近年では、映画の登場により、これらのテーマを探る新たな道が開かれました。多くの映画が深い哲学的、精神的メッセージを含んでおり、その象徴的な例が黒澤明の『生きる』です(上記でも触れています)。
科学
「人生の意味」という概念は主観的であり、ある種「形而上的」な性質を持つため、容易に定義したり測定したりすることはできません。そのため、経験的証拠や客観的な測定に依存する従来の科学では、このテーマを完全に説明することは困難です。
それでも、多くの研究がこのテーマの一部を明らかにする手助けをしてきました。
- 神経科学
神経科学の進展により、人間の行動や経験の神経基盤を解釈する上で大きな進歩がありました。研究によれば、前頭前皮質のような特定の脳領域が意思決定、計画、自覚に関与していることが示されています。これらの認知プロセスは、困難を乗り越え、自分自身の人生を創造するために欠かせないものです。
- 進化心理学
進化心理学の観点から見ると、生命の目的は生存し、繁殖し、自らの遺伝子を次世代に伝えることです。この本能が人間の行動を形作り、それを実現するための仕組みを生み出してきました。その一つが目的や意味を探すことです。この探求は、宗教や共同体、個人の成長を通じて実現され、混沌とした世界で生存の可能性を高めます。この動機こそが、何か重要なことを達成し、違いを生み出し、個人の遺産を残すための原動力です。
この説明は「人間主義的」なアプローチを好む人々には不完全で議論の余地があるかもしれませんが、少なくとも人間の「喜び」や「報酬」の重要性を語る枠組みとして興味深いものです。喜びを積極的に追求し、現在の瞬間に喜びを見出し、自らの努力に報いることで、生きる意志を強化し、人生の旅を続ける動力となります。
人生の起源
人生の意味を追求するうえで不可欠な一部は、私たちの起源を探ることです。つまり、「私はどこから来たのか?」という問いを、個人レベルや宇宙的なレベルで考察することに他なりません。
生命はどのようにして誕生したのか?私たちは宇宙で唯一の存在なのか、それとも他の場所にも生命が存在する可能性があるのか?私たちの存在は偶然の産物なのか、それとも壮大な宇宙のデザインの一部なのか?
このテーマについては、さまざまな視点が存在します。科学の分野では、いくつかの理論が提唱されています。たとえば:
- 生命の起源:非生物的な物質から自然のプロセスを通じて生命が誕生した可能性を探る科学的研究。
- パンスペルミア説:生命が宇宙の他の場所で誕生し、隕石や彗星によって地球にもたらされたとする仮説。
宗教の分野では、多くの説明が提供されています。その多くは、神や霊的存在、超自然的な存在の存在を含んでおり、宇宙のすべてを生み出す「究極の実在」の存在を指摘しています。
哲学者たちもまた、現実の本質について推測してきました。たとえば、アリストテレスは生命が永遠であると主張し、他の者たちはそれが宇宙の偶然の結果に過ぎないと論じています。
現在のところ、どの理論も「正解」として定義されてはいません。おそらく人類がこの問いに対する最終的な答えを見つけ出すことはないだろうと私は思います。それでもなお、創造の起源について考えることは価値のある試みであり、人生の意味を発見するための良い出発点となるのではないでしょうか。
なぜそう思うのか、と聞かれるかもしれません。
それは単純に、心を静め、視野を広げ、自分という限定された枠を超越するためです。
こうした考察を通じて、私たちはより注意深くなり、これまで気に留めなかった些細な事柄に気づき、万物のつながりを理解するようになります。
宇宙の広大さ、自然の神秘、人間存在の儚さを考えると、生命の尊さ、世界の美しさ、そしてすべての存在の持つ尊厳に対する深い感謝の念が湧いてきます。この気づきこそが、私たちをより意識的に生きるよう促し、思いやりを持って行動し、より持続可能な未来を目指す力となるのです。
江本勝の著書『水は答えを知っている』(英語:The Secret Life of Water)の第3章には、このような美しい言葉が記されています:
毎日、地球には約12個の彗星が降り注いでいます。その一部は100トンもの重さがあり、その多くが氷でできています。この氷が大気圏に達すると雲となり、やがて雨として地球に降り注ぎ、海を満たします。そして、私たち自身がほとんど水で構成されていることを考えると、私たちはある意味、宇宙からやってきた存在と言えるのです。
晴れた夜に外に出て、仰向けになって星を見上げたことがありますか?遠い昔の記憶のような懐かしさを感じたことは?夜空を見つめると、魂は何百万年、何十億年も前に遡ります。自分自身が宇宙の中で、惑星のひとつのように浮かんでいると感じたことはありませんか?
…
想像してみましょう。宇宙への旅から帰還し、地球という緑豊かな星に立ち戻った瞬間を。深い緑の森に立ち、木々の間から差し込む光が降り注ぎます。落ち葉が地面を柔らかく覆い、倒木の幹には深い緑の苔が包み込んでいます。シダがあたり一面に広がり、生命の音が空気に満ちています。鳥の羽ばたき、鳥たちのさえずり、木々を揺らす風の音が響き渡ります。
冷たい空気を深く吸い込み、自然の香りを体いっぱいに感じながら、自分の故郷がここであること、これが自分の生まれた場所であるという深い気づきを得ます。そして、それゆえに地球を愛し、大切にしなければならないのです。
(In every minute of the day, about twelve comets, some as heavy as 100 tons, fall to earth. These comets are made up mostly of ice. When the ice reaches the atmosphere, it forms clouds and eventually falls to earth in the form of rain to fill the ocean. And since we are mostly water, in a sense we all come from outer space.
You’ve probably gone outside on a clear night to lie on your back and look up at the stars. Did you ever experience a feeling like nostalgia, maybe memories of long ago? When you gaze at the heavens, your soul is taken back in time millions and billions of years. Do you ever get the feeling that you yourself are somehow floating up there in the cosmos, like a planet of one?
…
Imagine you have just returned from a trip into space. You step off your vessel onto our green planet and find yourself standing in a deep green forest. Rays of light filter through the trees towering above you. Fallen leaves soften the ground, and deep-green moss envelops the trunk of a fallen tree. Ferns cover the ground all around you. The sounds of life permeate the air: the flapping of wings, the calling of birds, and the wind whistling through the trees and shaking the leaves.
As you take a deep breath of cool air and let the scents of pristine nature fill your body, you have a deep realization that this is your planet and your birthright. And that is why you must love it and why you do)
人生の意味
また、歴史上の偉大な思想家たちの哲学的考察を反省すると、自分自身の価値観や信念について深く考えるよう促されます。たとえば、私のようにストア派の「徳」と「自制心」の原則に惹かれる人もいれば、エピクロス派の「平穏の追求」に共鳴する人もいるでしょう。
いずれの世界観を持つにせよ、明確に定義された個人的な哲学は方向性を与えてくれるはずです。自分の価値観や目標を理解することで、外部からの圧力に左右されず、自分の道を進むための決断がしやすくなります。
ただし、生命がどのように誕生したかを探ることにあまり執着しないようにするべきです。過去を振り返る目的は、理解と受容を育むことにあるのですから。
「究極の」答えを見つけようとしすぎると、人生の軌道を見失い、生きることを忘れてしまう恐れがあります。また、人生観が異なる人々と無意味な議論に巻き込まれる可能性も高まります。
重要なのは、過去の理解を基盤にして、今何をすべきかを考え、この世界をより良い場所にするために行動することなのです。
人生の意味は「道」に従うことにある
前章で述べたように、人生の意味を求める旅路は人それぞれ異なる方向に進むものの、多くの共通点が存在します(例えば、人間の主体性、道徳的な価値観、他者とのつながり、社会への貢献など)。そしてその目的地は結局、喜び、意義、そして充実感に満ちた人生にたどり着くと言えるでしょう。
これまでのさまざまな観点を考慮し、自身の経験をもとに私はこう断言します。
人生の意味とは、「道」を見出し、それに従うことにあります。
東洋哲学において、「道(タオ/みち)」は多面的な概念であり、多様な意味を持ちます。道教やその他の伝統の教えに見られるように、「道」とはすべての存在の根本原理、宇宙の自然な秩序、そして創造を形作る宇宙的な力を指します。この点において、「道」は、例えば映画『スター・ウォーズ』における“フォース”にたとえられることもあります。
しかし、より個人的で形而上学的でないレベルにおいて、「道」とはライフスタイル、生き方を意味します。それは個人のアイデンティティを形作る価値観、信念、倫理的指針、そして日々の実践を含むものです。「道」を歩むことで、人は自己実現や啓発、解放といったより高次の存在状態に向かうことができます。
「道」に従うとは、自分の行動や思考を自然な流れに調和させることであり、「小川」から「海」へ、そして「大洋」へと至る旅路を意味します。簡単に言えば、私たちは皆、より大きな全体の一部であることを受け入れ、日々成長を目指しながら、自分自身と他者との調和を育むべきだということです。
人生の意味
「それは何かの宗教のように聞こえる!」と思う方もいるかもしれません。
確かに、日本語で「宗教」を表す言葉には多くの場合「教」が含まれていますが、「道」という漢字を使うものも存在します(例:神道)。また、かつて仏教は「仏道」と呼ばれていました。
私自身の経験から言えば、宗教とは単に「神秘的な存在」を説く組織化されたカルトではなく、もっと広い概念として捉えるべきです。その本質は、人間が自然や「天」と調和して生きるための方法、生き方を提供するものです。
ここからわかるように、「道」は神秘的でもカルト的でもありません。それどころか、むしろ私たちが日々の生活の中で実践し得る極めて実用的な哲学なのです。
「道」に従うとは、自分自身の「宗教」を見つけ、それを実践することとも言えます。ただし、それは従来の狭義の宗教ではなく、もっと広い意味での「生き方」の追求です。
これは、自分の内なる直感、潜在意識、内なる知恵、そして良心に耳を傾け、それに基づいて行動し、最終的に「海」(自己を超えた存在)へ導かれることを意味します。
その本質は、宗教的伝統だけでなく、哲学的概念や世俗的な思想にも通じています。道教の「道」や仏教の中道、キリスト教の「道・真理・生命」、アリストテレスの「エウダイモニア」、ニーチェの「自己超越」など、多くの思想に共通するのは、自己発見、全体的な成熟、そして倫理的な生き方を追求するという考えです。
従来の宗教だけではありません。茶道、柔道、剣道、武士道などの伝統も「道」という概念を中心に展開しています
(画像ソース:Wikimedia Commons)
「道」の美しさは、その個別性にあります。それは一人ひとりが自分で見つけ出すべきユニークな道です。例えば:
- 芸術的表現:画家にとっての「道」は、人々を感動させ、豊かな人生を生きるためのインスピレーションを与える作品を創ることかもしれません。
- 科学的探求:科学者にとっての「道」は、新たな知識を発見し、人類の発展に貢献することかもしれません。
- 精神的実践:修行者にとっての「道」は、マインドフルネスを通じた啓発の追求かもしれません。
- 社会活動:社会活動家にとっての「道」は、正義と平等のために戦うことかもしれません。
親としての役割:親にとっての「道」は、子供たちを育て、それぞれの道を歩めるよう導くことかもしれません。
「では、自分の『道』をどうやって見つければいいのでしょうか?」と思う方もいるかもしれません。
残念ながら、この問いに対する答えは一筋縄ではいきません。詳細は後ほど触れますが、ここでは、自分の「道」を見つけた可能性を示すいくつかのサインを挙げてみたいと思います:
- 本物の満足感や充実感を感じること。
- 世界にポジティブな影響を与えているという実感を持つこと。
- 自分の行動が、自分の核となる価値観と深く一致していると感じること。
要するに、それは「フロー」の状態に到達し、自分自身という意識を超越するような感覚に似ています。この状態に入ったとき、作家の茂木健一郎氏が述べるように、「日々の雑務でさえも楽しくなる」ということです
もし自分が何かに没頭して「フロー」の状態にいることに気づいたら、おめでとうございます。それは、あなたが自分にとって意味のあるものを実現する道の途中にいるということです。
ただし、問題は、それを受け入れる覚悟があるかどうかです。社会的な期待や他人からの賞賛を手放し、自分自身を変えることに対して心を開けるでしょうか?
生きることとは、流れることです。魂が自由に流れることを許されたとき、その重荷は体から解き放たれます。なぜなら、魂と体は表裏一体のものだからです。
(The act of living is the act of flowing. When your soul is allowed to flow, you feel a burden lifted from your weary body, for the soul and the body are simply two sides of the same coin)
江本勝
人生の意味
「道」に関してもう一つお伝えしたいのは、その多次元的な性質です。「道」はキャリアや職業的な発展に限定されるものではなく、人生のさまざまな側面を網羅するものです。
本質的には、「道」はその人の人生観、価値観、そして世界観を象徴しています。これらの視点こそが、人間を他の生物と区別し、人生の浮き沈みを乗り越える力を与えてくれるのです。
- 人生観
「人生観」とは、存在の理由や死、幸福、苦しみといったものに対する信念を含む個人の哲学を指します。この考え方が、その人の目標や優先順位、困難への向き合い方を形作ります。
例えば、来世や輪廻転生を信じる人もいれば、物質的な成功を重視する人、あるいは精神的な充実を追求する人もいます。また、目の前の瞬間を大切にする人と、将来を計画することを重視する人もいるでしょう。
- 価値観
「価値観」とは、その人が重要だと感じる原則や基準、資質のことです。たとえば:
- 正直さ、誠実さ、思いやり、忠誠心。
- 家族、友人、地域社会。
- 成功、富、社会的地位、平等、自由。
これらは文化、育った環境、個人の経験などによって形成されます。そして、価値観は人生の選択や決断、人間関係を導く道しるべとなります。
- 世界観
「世界観」とは、世界をどのように認識するかを示すレンズのようなものです。宇宙、社会、人類の本質についての全体的な見解を含み、それが現在の出来事の解釈(未来への楽観主義や悲観主義など)、政治的見解、他者との交流傾向(個人主義的か集団主義的か)を決定づけます。
世界観を決定するための重要な問い:
- 現実の本質とは何か?
- 真実をどう知るか?
- 人間と自然界の関係とは?
世界観の例:
- 唯物論:現実は物質とエネルギーに基づく。
- 観念論:現実は基本的に精神的または霊的なものである。
- 相対主義:真実は主観的であり、人や文化によって異なる。
これらの「人生観」「価値観」「世界観」は、一見すると別々のものに思えますが、実際には相互に関連しています。
例えば、カルマを強く信じる人は、思いやりや非暴力を中心とした価値観を採用しやすく、人生の出来事を因果のサイクルとして解釈する傾向があります:
- 現在の苦しみは、過去の過ちの結果であり、それはこの人生でも前世でも起こりうる。そのため、不幸を嘆くのではなく、善行を積むことに集中すべきだと考えます。
- 同時に、他者に対しても苦しんでいる人に思いやりを示すことが奨励されます。つまり、「カルマを超えてダルマを貫く」ということです。
私の「道」を見つける旅
ここからは私自身のエピソードをお話ししたいと思います。正直なところ、自分の「道」を一言で表現するのはなかなか難しいです。そのため、これまでの人生のステージを一つずつ振り返りながら説明していきます。この共有が、皆さんが自分自身をより深く理解し、自分の答えを見つける助けになれば幸いです。
一つ気づいたことがあります。それは、多くの人が「目的」や「人生の意味」といったものを、職業や仕事と結びつけて考えがちだということです。それも理解できますが、人生は生計を立てるためだけのものではないと私は思っています。特に、自分の核となる価値観や人生哲学を明確に理解することが重要です。
そこで、私の話を以下の3つのセクションに分けてお伝えしたいと思います。
キャリアパス
2024年現在、私は社会人として働き始めてから7年が経ちました。この7年間で、私は4つの異なる業界(小売業、医療業界、ビジネストレーニング、デジタルマーケティング)でフルタイムとして勤務し、それぞれの会社でさまざまな経験を積みました。
この4つのステージは、私にとって一年間の四季を連想させるものでした。それぞれが一つの転機となり、「自分とは何者なのか」そして「本当に大切にしたいものは何なのか」を見つける道のりの一部となったのです。
「春」:芽吹くキャリア
2017年、大学を卒業したばかりの私は、どの方向に進むべきか全く分からず、ただ「働ける場所が欲しい」と思っていました。いくつかの職に応募した結果、日本の小売業の会社で2ヶ月間の翻訳のアルバイトに就くことができました。
その2ヶ月後、部署のマネージャーが私にコンテンツ担当者として働くことを提案してくれました。このポジションでは、会社のECサイトの商品ページを作成する役割が求められました。
当時の私は、なぜかは分からないけれど、コンテンツ制作が好きだということだけは分かっていたので、その提案を喜んで受け入れました。当時の私は経験も浅く、新しいことを学びながら働くことに喜びを感じていました。また、過去に短期間働いた他の会社に比べ、この会社の職場環境は非常にフレンドリーで協力的だと感じました。
最初は全てが順調でした。しかし、時間が経つにつれ、仕事の性質は次第に変わり、魅力的な商品説明を作成することから、単なるデータ入力の作業へと移行していきました。
会社のECプロジェクトのために毎週何百もの商品ページを作成することが求められましたが、コンテンツの質に関する明確な基準はなく、ただ「数をこなす」ことが重要視されていました。
多くの場合、商品に関する情報がマーチャンダイジング部門から提供されず、他のECサイトの内容をそのままコピーするしかない状況でした。その結果、まるでロボットのように働く日々が続きました。創造性やスキルを発揮する機会はほとんどなく、映画『生きる』の渡辺勘治のように、ただ紙に判を押して仕事を流すだけの状態でした。
そんな日々は、私が想像していた仕事の楽しさとは程遠いものでした。
次第に、自分の仕事と本来の目的との間に大きな隔たりを感じるようになりました。「道」を見失ってしまったように感じたのです。
情熱は次第に薄れ、繰り返し作業のループに閉じ込められている自分に気づきました。仕事に対する熱意を失い、キャリアの方向性や自分が生み出している価値に疑問を抱くようになりました。それでも未知の世界への恐怖から、変化することをためらい、満足していない現状にしがみついていました。
ただ、この仕事を通じて得たチームメンバーとの関係性には意味を感じていました。その中の一人は、今でも私のメンターのような存在です。
彼らのフレンドリーさが好きでした。倉庫で一緒にお客様の注文を処理した時間や、たまに開催される温かい雰囲気のパーティーを本当に楽しんでいました。その瞬間だけは、自分の「苦しみ」を完全に忘れることができました。
また、この会社の透明性のあるポリシーや協力的な職場文化も気に入っており、他の会社では経験できなかったものでした。そのため、仕事に対する不満を抱えながらも、辞めることに踏み切れずにいました。
この単調な仕事に2年間も留まりましたが、ついに「このままではいけない」と思い、思い切って次のステップへ進む決断をしました。
チームリーダーや部署のマネージャーの助言にもかかわらず、自分の心に従うことを選びました。その時点では、どこにたどり着くのかは分かりませんでしたが、少なくともこの2年間で専門スキルを全く伸ばせていないことに気づき、行動を起こさなければいけないと痛感していました。
そして、私は小売業には引き寄せられないことも理解していました。自分の「道」がどこにあるのかはまだ分かりませんでしたが、それが小売業やマーチャンダイジングとは関係ないことだけは確信していました。
その頃、オフィスワークを続けるか、別の道を模索するかで悩んでいました。英語スキルが他の社員よりも高かったため、チームリーダーからは英語教師としてのパートタイムを提案されました。
実は大学時代に一度考えたことがありましたが、世間の目やプレッシャーから教師という職業を低く見てしまい、明確なキャリアパスがないとして敬遠していたのです。
それでも、このアイデアが何度か頭をよぎり、チームリーダーの提案は私に深く考えさせるものでした。
学んだこと
- 停滞の時期ではありましたが、この2年間を通じて、自分の直感を信じ、先が見えない中でも大胆な決断を下すことの大切さを学びました。木が古い葉を落として新芽を出すように、私たちもまた、タイミングが来たら慣れ親しんだものを手放し、未知の世界に飛び込む必要があるのです。
- 人生の初期段階は、探求と実験の時期です。「未来の種を蒔く」ために失敗を恐れず、リスクを取り、失敗から学ぶべき時期でもあります。こうした経験を通じてこそ、人は真に花開くのです。
- 時には人間関係など、外的な要素から意味を見出すことができます。それは困難を乗り越える助けとなるかもしれませんが、そうした意味は状況の変化によって失われる可能性があります。外的なものではなく、自分の内側から湧き出る意味を見つけることが大切です。
「夏」:発見の季節
最初の会社を辞めた後、医療ツーリズムを手掛けるヘルスケア系スタートアップに転職しました。正直、給与は期待していたほどではなく、むしろ前職より低かったのですが、CEOと面接で話した際に彼のビジョンに共感し、この会社で働くことを決めました。
当初は「患者を最適な医療提供者に、最も手頃な価格でつなぐ」という会社の理念にとても惹かれました。それだけでなく、創造性の自由、フラットな組織構造、国際色豊かなチームでの仕事(英語を使いながらスキルを伸ばせる点も魅力的でした)など、多くの点が新鮮で魅力的に感じました。
しかし、数か月が過ぎると、次第に幻滅を感じるようになりました。
会社は当初の使命から外れ、短期的な利益を優先する方針に転換。患者に価値を提供することよりも、流行を利用して利益を上げることに注力するようになりました。特に高額な幹細胞注射などの実験的な治療を推進し始めたのは、収益性が高いためでした。この方針転換により、倫理的な疑念が生じ、私の価値観と対立するようになりました。
医療知識がほとんどない人が未検証の医療ソリューションを推進すること、そして医療ビジネスが単なるeコマースの考え方を採用することに、私は深い違和感を覚えました。
…
また、職場環境も次第に活気を失い、内部分裂や方針の不明確さによって、イノベーションが抑制されるようになりました。最終的に、会社は2つの派閥に分裂し、多くのスタッフが仕事にやりがいを見いだせず、単に給与のために働いているような状態になりました。
前職のような調和的で協力的な職場環境とは全く対照的でした。
そんな混乱の中で、私は「働くことの本当の意味とは何だろう?」と自問するようになりました。仕事はただの生計手段なのか、それとももっと意味のあるものなのか? 自分の価値観や優先順位に共鳴する道を探すべきではないのか?
自分が本当に大切にしているものとは一体何なのか?
こうして自問自答を繰り返すうちに、私は人々と深くつながり、彼らを励まし、教育するような役割に惹かれていることに気づきました。つまり、若い世代の心を育み、人々が自分の可能性に気づくのを助けるような仕事です。
その結果、TESOLコースに申し込み、英語教師になる道を模索し始めました。ただ、当時はまだ教師という仕事を生計を支えるための副業としか考えておらず、本気で追求する気持ちはありませんでした。教師という職業が一般的なオフィスワークよりも地位が低いという先入観があり、そのイメージと自分の夢をどう折り合いをつけるべきか悩んでいました。
一方で、デジタルマーケティングの分野にも強く惹かれていました。これまでコンテンツクリエーターとして働いてきた経歴を活かして、フルスタックのデジタルマーケターになることが自然なステップアップだと思えたのです。加えて、創造性やデータ分析、戦略開発、テクノロジーといった要素が、当時の私の経験に非常にマッチしていると感じました。
そんな折、あるビジネストレーニング提供会社のマネージャーから、働いてみないかというメールが届きました。
その時、私は自分の波動(はどう)に合う仕事を見つけたような気がしました。それがなぜかはわかりませんが、初めて「暗闇の中で光を見つけた」と感じたのです。
その役職は私のスキルや興味に完璧に一致しているように思え、その会社のミッションにも強く共感しました。まるで、ついに自分の本当の天職を見つけたような気がしました!
直感を信じ、面接を受けた結果、そのポジションを得ることができました。
学んだこと
- 幻滅を味わったものの、この時期を通じて、ビジネスの複雑さを深く理解することができました。スタートアップの初期の使命は感動的でしたが、現実は理想とは程遠いものでした。哲学的な基盤がしっかりしていないと、どのような結果になるかを痛感しました。
- 人生の意味の本質は、自分自身と向き合い、行動を価値観に一致させ、情熱を追求し、社会に貢献することにあります。
人生の意味
「秋」:危機と再評価の季節
新しい人生の章を希望と熱意を胸に迎えました。私はフルスタックのデジタルマーケターとして、コーチングおよびトレーニングを提供する組織に加わりました。そのモットーである「リーダーを変え、世界をより良くする」という言葉は、私の価値観と深く共鳴するものでした。この高尚な目的に貢献できることが、とても楽しみでした。
実際、当時の私にはコーチングの本質を十分に理解しているとは言えませんでしたが、それでも強い魅力を感じていました。おそらく、これまでの人生経験や教育的背景が私を引き寄せたのだと思います。
最初のうちは、会社の文化が素晴らしいと感じました。みんなが親切で助け合い、まるで職場というよりは家族のような温かさがありました。しかし、しばらくすると、心の準備ができていなかった現実に直面することになります。
そこは家族経営の会社であり、その主な関心事は自己宣伝と利益追求であって、真に社会へ影響を与えることにはあまり重きを置いていないことに気づきました。彼らのメッセージは常に「最高」であることを強調しており、「より良くする」という精神には欠けていました。特に、マネジメント層は大企業から顧客を獲得することに非常に執着しており、それが「お金になるから」という理由が前提だったように思えます。
私は次第にジレンマに陥りました。コーチングと自己成長の可能性を信じる一方で、この会社の「ビジネス哲学」とは相容れない感覚が拭えなかったのです。私はもっと包括的で平等主義的な価値観を求めていました。例えば京セラ哲学のように「個の利益」より「全体の利益」を優先するような理念を期待していましたが、ここはむしろ一部の「自己啓発の権威」とされる人物を押し上げることに力を注いでいるようでした。
業務運営も中央集権的で、本社が資金に関わる重要事項を全て管理し、各支社には販売活動と顧客獲得のみを任せる構図でした。戦略に関する情報共有もほとんどなく、四半期ごとの会議では人々が自己アピールする場になっているように見えました。
この状況の中で、私は自分が危機に直面していることを実感しました。この選択は間違っていたのではないか?なぜ初めはあんなに意欲的だったのか?何が問題だったのか?
やがて私は、自分なりの方法で現状を変えようと行動を起こしました。たとえば、マーケティング活動をよりコントロールするために現地向けのウェブサイトを作成したり、スパム扱いされる本社のメールシステムをやめて独自のメール配信システムを立ち上げたりしました。
これらの行動は、自分が「正しい」と信じていたからこそ取ったもので、現状に挑むつもりはありませんでした。ただ、自分の信念に従った結果でした。そして、その信念こそが、この職場環境においても仕事を続ける意味を与えてくれていたのだと思います。
振り返ると、すべてが賢明な選択だったとは言えません。しかし、純粋な信念に基づく行動であり、他人の無関心や反対、疑念に直面してもその信念が私を支え続けてくれました。その頃の私は、まるで何か「戦士の精神」が燃え上がっているかのようでした。
とはいえ、どんな強い信念でも、いつか終わりを迎えるときが来るものです。
…
一年が経過する中で、この仕事に対する希望や夢も次第に薄れていきました。その会社のビジョンと私の価値観や志向が完全には一致していなかったことを痛感しました。当時はその理由を完全に理解していたわけではありませんが、それでも前に進むために必要な気づきでした。
それは痛みを伴う気づきでしたが、私にとっては次のステップに進むために欠かせないものだったのです。
学んだこと
- 外的な状況が必ずしも理想的でなくても、暗闇の中で私たちを導くのは自分自身の内なる強さと回復力です。
- 逆境に直面しても、自分の価値観に忠実であれば、そこに意味を見出すことができます。
- 善意で行動したとしても、自己中心的で硬直的だった部分がありました。今では、外交と妥協の重要性、そして忍耐と粘り強さの価値を理解しました。自分の信念を貫くことは大切ですが、それ以上に共感を持って対立を解決することが同じくらい重要なのです。
「冬」:内省と再生の季節
先述した通り、前述のコーチング&トレーニング会社でのフルタイム勤務を1年で終えた後、私の夢は壊れたかのように感じました。ただひとつの願いは「辞めること」だけ。行き先などどうでもよく、どこへ行っても構わない、という心境でした。
そして私は、以前の会社でパートタイムとして働き続けながら、デジタルエージェンシーに「漂流」することになりました。外から見れば、この新しい仕事は何も問題がないように見えました。給料、プロジェクト内容、クライアントの名声、どれも良さそうでした。
しかし、その内側では空虚感に苛まれていました。おそらく、それは前職で「生涯を捧げる」と思っていた仕事を辞めた影響だったのでしょう。仕事に対しても感情的なつながりを感じることはなく、ただ指示されたことを理由も考えずに淡々とこなすだけの日々。
まるで深い眠りに落ちたかのような、無気力で無関心な状態に陥っていました。かつて情熱を燃やしていた「炎」は消え、冷たい空虚だけが残っていました。
エージェンシーでは、ランダムで無意味に思えるタスクが頻繁に降ってきました。たとえば:
- 「このウェブサイトを監査してください」
- 「このプロジェクトの提案書を作成してください」
- 「この見込み顧客向けの最適化案を提案してください」
- 「会社の提案書のこのセクションを埋めてください」
そして、私は理由も考えず、それらをただこなすだけでした。会社のチームスピリットは非常に低いと感じ、同僚たちは個々に動いているように見えました。当時の上司も私の存在をあまり気に留めていないようで、まるで自分だけがチームにいるかのような態度でした。
報告書や提案書を提出すると、管理者はしばしばデータや文章を説明なしに勝手に変更し、全く別の内容に変えてしまうことが常でした。その結果についても、聞かなければ何も教えてくれないのが当たり前。クライアントがリードに転換したかどうかも、進捗状況も、こちらから尋ねない限り一切の情報はありませんでした。
そんな日々の中で、心の中の声がこう囁くことがありました。
「なんて退屈で無意味なんだ!」
そして、別の声が続きます。
「意味なんて考えるな。ただ指示通りに働いて給料をもらえばいい。それだけで十分だ。」
そんな言葉を繰り返し自分に言い聞かせても、内心では違和感を覚えていました。このままでは「ミイラ」のように生きているだけだ、と。1年前の「戦士の魂」を燃やしていた本当の自分とはまるで別人でした。
内心では薄々気づいていました。嫌でも認めざるを得ない真実、それは、私のビジョンは以前の会社、より具体的にはコーチングとトレーニング業界にあるということでした。
…
そんな折、今では私の精神的な師とも呼べる新しい上司がチームに加わりました。彼の情熱、誠実さ、そして仕事への献身的な姿勢が、私の心の中に再び火を灯しました。
彼は、英語があまり得意ではないにも関わらず、オペレーション責任者やCEOと熱心に議論を交わす姿を何度も見せてくれました。その姿を目にするたび、私は以前の会社での自分を思い出さずにはいられませんでした。
毎日深く考えさせられる日々が続きました。少しずつ、私の情熱は再び目覚めていきました。そして、彼との会話を通じて、自分の世界観や人生観を再評価する機会を得ました。
…
人生の意味
時が経つにつれ、私は多くのことを悟りました。その中でも特に大きかったのは、従来型の企業キャリア、とりわけデジタルマーケティング業界は私の進むべき道ではない、ということでした。その業界の利益重視の姿勢は、私の価値観と一致しなかったのです。
金儲けだけに偏重することでも、単なる社会的流行を追うことでもなく、AIの倫理的問題を無視することでもない。コスト削減のために従業員を解雇し、既存の社員にさらなる負担を強いるようなものでもありませんでした。
もっと意義があり、人間味のあるもの。それは、人の成長に関わる何かでした。
私の本当の使命は、他者を助け、彼らの道を導くことにあると気づきました。それはビジネスの中にはありませんでした。
この新たな洞察を胸に、私は「信じる一歩」を踏み出し、次の会社に応募することなく、自らの意思で退職を決意しました。
企業の世界を離れるという決断は恐ろしいものでしたが、後悔はありませんでした。むしろ、それによって振り返る静かな時間と、自分の人生を見つめ直す余裕が与えられたのです。
数年前、まだ前職で働いていた頃、自分で自己啓発に特化したウェブサイトを作ることを考えたことがありました。しかし、具体的にどのテーマについて書くべきか分からず、その計画は進みませんでした。
それでも退職届を出す頃になると、このアイデアについて真剣に考えるようになりました。
「具体的に自己啓発のどの部分に関心があるのだろう?自分は一体誰なのだろう?」
その時、頭に浮かんだキーワードが「自分探し」でした。この瞬間から、このブログをスタートし、自分自身を探求する旅が始まりました。
ブログを運営していく中で、「自分探し」の中でも特に自分が情熱を持っているテーマが見えてきました。その一つが「人間の行動を理解すること」、つまり心理学でした。
大学時代、マーケティングの授業を受けた時、なぜかワクワクしたのを覚えています。その理由は当時は分かりませんでしたが、今振り返ると、マーケティングを通じて人々の「心の内側」を垣間見ることができたからではないかと思います。言い換えれば、自分や他者をよりよく理解することができたのです。
結局のところ、自分が本当に興味を持っていたのはマーケティングではなく、心理学だったのです!
ビジネスやお金、流行、あるいは人を「操作」する能力ではなく、人を理解したいという願望が自分をマーケティングに引きつけたのだと気付きました。
心理学は、私が深く興味を持つコーチングとも密接に関連しています。多くの著名なコーチが心理学の教育的背景を持っていることを知り、心理学を学ぶことはまさに「一石二鳥」だと感じました。
この気づきは私の中に新たな情熱を灯し、長い間失っていた方向性と目的意識を取り戻すことができました。
心理学を独学することで、自分自身や他者についてさらに理解を深めることができ、人生の困難や他人の迷惑行為にも冷静に対応できるようになりました。
…
さらに時間が経つと、心理学以上に興味を持つ新たなテーマを発見しました。それは「哲学」です!
哲学とは、結局のところ真実や知識を追い求める学問です。そして、それは私が高校時代からずっと関心を持っていたものです。人間の本質や現実の性質といった哲学のテーマは、常に私の興味を引きつけてきました。
振り返ってみると、自分は表現活動、たとえば絵を描くこと、小説を書くこと(まあ、子供っぽい作品でしたが)、楽器を弾くことや歌うことに深く情熱を注いでいました。それは真実を求め、知識を得たいという欲求から来ていたのだと思います。
哲学は、これらの関心をより成熟し、包括的な形で復活させ、私の「内なる子ども」と再びつながる手段となったのです。
こうして、自分の心の中に隠されていたもう一つの「宝石」を見つけた気がしました。
一部の人からは「あちこち漂ってばかりいる」と思われるかもしれません。しかし、自分の中では、これまでやってきたことはすべて同じ核に集約されると感じています。それは、「自分を捨てて、人類全体に貢献すること」です。
これが、自分にとっての「道」であり、「信仰」なのです。
人生の意味
…
現在、前職を退職してから1年以上が経過しました。この「ギャップイヤー」の間に、振り返り、執筆し、さまざまな人と出会い、以前の同僚や友人たちと再会することで、自分自身を取り戻し、明確さを得ることができました。また、この期間は、スローダウンして瞬間を楽しむこと、人とのつながりを大切にすること、自分を律すること、貯金すること、そして自分の財務を管理することの重要性を教えてくれました。
正直に言えば、まだ自分の心の層を一つずつ剥がしている途中です。それでも、自分が正しい道を歩んでいると信じています。
時々、自分が迷路を歩いているような、あるいはパズルを解いているような気がします。少しずつピースをはめ込んでいくように。まるで遊戯が千年パズルを解く姿のように。あるいは、ファラオ・アテムが自分の「真の名前」を探しながら心の迷宮を進むように。
この人生という「パズル」を解いていくプロセスは、挑戦に満ち、予想外の展開が多いものの、とてもワクワクします。それによって、自分が最も豊かに生きていると感じられるのです。
大きな絵にピースをはめ込むたびに、新しい知識が得られ、目的意識が高まります。未来が不確実であっても、それを受け入れる準備ができています。もはやただの歯車ではなく、自分は創造者であり、思想家であり、真理を探求する者なのです!
新たな人生の章を始める準備ができました!
春、夏、秋、冬、そしてまた春!
学んだこと
- 人生の意味を追い求めることは、絶え間ない探求、実験、そして進化のプロセスです。「究極の」意味を見つけようとするのではなく、瞬間の中に意味を見出す方が良いのです。過去に大切だったものが、現在や未来にはそうではなくなることもあります。だからこそ、「信念の飛躍」を恐れないことが大切です。
- 他人に自分の選択を左右されるのではなく、自分の心の声に耳を傾ける方が良いのです。心は答えを知っています。それは自分の中にある「道」の具体的な現れなのです。
- 時には自己反省の時間を作る必要があります。それは、責任転嫁をしたり、他人を責めたりするためではなく、理解するためです。自分や他者、そして世界について無知であったがゆえに、無目的に「彷徨って」いたことに気付くためなのです。
人生の意味は、人によって、日によって、時間によって異なるからである。したがって、重要なのは、一般的な人生の意味ではなく、その人のある瞬間の具体的な人生の意味なのである。
ヴィクトール・フランクル
価値観
反物質主義
自分の人生を振り返ると、私はいつも最小限で禁欲的な生活に魅了されてきたことに気付きます。物質的な所有物がもたらす便利さを認めつつも、私は決して物欲が強い人間ではありませんでした。
この価値観は、過去の経験やカルマ、あるいはそれ以外の何かによるものかもしれませんが、本当の豊かさは外部のもの(お金や名声など)ではなく、内面的なもの(名誉、品位、知性など)から生まれるという根深い信念に起因していると思います。この考え方は、ある意味では非常にストイックとも言えるでしょう。
例えば、福沢諭吉の『福翁自伝』の一節を読んだとき、その内容に深く共感したことを覚えています:
話は以前《もと》に立還《たちかえっ》て復《ま》た経済を語りましょう。私は金銭の事を至極《しごく》大切にするが、商売は甚《はなは》だ不得手である、その不得手とは敢《あえ》て商売の趣意を知らぬではない、その道理は一通《ひととお》り心得《こころえ》て居る積《つも》りだが、自分に手を着けて売買《ばいばい》貸借《かしかり》は何分ウルサクて面倒臭くて遣《や》る気がない。且《か》つむかしの士族書生の気風として、利を貪《むさぼ》るは君子の事に非《あら》ずなんと云うことが脳《あたま》に染込《しみこ》んで、商売は愧《はず》かしいような心持《こころもち》がして、是《こ》れも自《おのず》から身に着き纏《まと》うて居るでしょう。
…
先《ま》ずこの位なことで、その癖私は維新後早く帳合之法《ちょうあいのほう》と云う簿記法の書を飜訳《ほんやく》して、今日世の中にある簿記の書は皆私の訳例に傚《なら》うて書《かい》たものである。ダカラ私は簿記の黒人《くろうと》でなければならぬ、所が読書家の考《かんがえ》と商売人の考とは別のものと見えて、私はこの簿記法を実地に活用することが出来ぬのみか、他人の記した帳簿を見ても甚《はなは》だ受取が悪い。
ウンと考えれば固《もと》より分らぬことはない、屹《きっ》と分るけれども、唯面倒臭くてソンな事をして居る気がないから、塾の会計とか新聞社の勘定とか、何か入組んだ金の事はみんな人任せにして、自分は唯その総体の締《しめ》て何々と云う数を見る計《ばか》り。こんな事で商売の出来ないのは私も知《しっ》て居る。
…
如何《どう》でも是《こ》れは持《もっ》て生れた藩士の根性か、然《しか》らざれば書生の机の抽斗《ひきだし》の会計法でしょう。
この文章を振り返ると、私は諭吉先生の考え方に非常に共鳴します。結局のところ、私もある程度は同じように考えてきたのです。つまり、伝統的な「富の追求」からは少し離れた存在だと感じてきました。
私が興味を持つのは、お金や物質的なものよりも抽象的な概念や思想の世界です。ビジネス交渉や値切り交渉のようなものには全く惹かれませんでした。むしろ、人間の思索の深淵を探求することや、知識を追い求めることに強く惹かれてきたのです。
人生の意味
子どもの頃から、最新のトレンドやブランドに夢中になる友人たちを尻目に、私は世界を理解し、その中での自分の役割を模索することに関心を持っていました。
皮肉なことに、大学では国際ビジネスを専攻しました。しかし、その選択は、親が近所の人や親戚と話す際に恥ずかしい思いをしないためのものであり、私自身の心が望んだものではありませんでした。利益や市場シェア、財務指標に焦点を当てるビジネスの世界は、私にとって空虚でさえあると感じました。
近年になり、私は他者を助けたり、地域社会に貢献したりするような仕事に強く惹かれることを自覚しました。例えば、ボランティア活動、コーチングやメンタリング、あるいは単に誰かの話に耳を傾けることなどです。
もちろん、経済的な安定が必要であることは否定しませんが、仕事の本質は「より大きな善」に貢献することだと信じています。
人生の意味
この信念が私の人生の選択を導き、現在の活動にも大きな影響を与えています。たとえ私のブログや発信するコンテンツに読者がいなくとも、私はそれを続けるつもりです。それは、学生が教授に課題を提出するように、社会に貢献し、自己を成長させるための行為だと思うからです。
物質主義的な価値観にとらわれず、自分自身の道を探求し続ける――それこそが私の「道」なのです。
人生の意味
社会の調和
私は日本人ではありませんが、昔から日本の「和」という哲学に強く惹かれてきました。私なりに理解したところ、「和」とは、自分自身のニーズと社会全体の利益のバランスを取りながら、全体の調和を重んじる生き方を指します。また、どのような状況でも、合意形成や妥協を目指すべきだと説いているように感じます。
どんな行動であれ、それが社会に価値をもたらさなければならないと思っています。稲盛和夫氏が京セラを率いる姿勢と同じく、自分自身のためだけではなく、また単に利益を追求するためだけではなく、社会全体に貢献するべきだと考えています。
この考えに触れたきっかけのひとつとして、ある日の散歩中に感じた出来事があります。その日は正午頃で、西向きの家々が東向きの家々よりも強烈な日差しを受けていることに気付きました。
その時、「誰もが東向き(より快適な環境)を望むが、誰かが必然的に西向き(より厳しい環境)を引き受けなければならない」と感じました。
もし、すべての人が簡単な道を選ぶならば、困難な仕事を引き受ける人は誰になるのでしょうか?
人生は共存と調和が基本であり、そのためには必要に応じて譲歩し、犠牲を払う覚悟が必要だと思います。
幸福と社会全体の利益を優先することは、より調和の取れた公正な社会の基盤であり、これは人類共通の願いではないでしょうか(おそらく、バットマンに登場するジョーカーのようなサイコパスを除いては)。
この信念は、私のキャリアの選択や人間関係に大きな影響を与えてきました。私は、社会にポジティブな影響を与える仕事や、自分と同じ価値観を共有する人々とのつながりに引き寄せられています。
人生において、競争や個人的な成功よりも、協力や共同作業に興味を持つことが多いです。私たちが不当な扱いを望まないのと同じように、他者を尊重し、思いやりを持って接するべきだと信じています。
自然が調和を求めるように、私たちも他者との関係においてバランスを追求すべきです。異なる視点に耳を傾け、共通点を見つけ、必要に応じて妥協する姿勢が求められるのではないでしょうか。
人生の意味
作家・茂木健一郎氏が述べたように、人生は「沼」に例えられます。腸内に無数の細菌が存在するように、沼地は無数の多様な生物が生息する多様性に満ちた生態系です。
このような「多様性」の存在をイメージすると、不快や嫌悪を感じる人もいるでしょう。しかし、それが自然で避けられない事実であると受け入れる人もいるはずです。多様性は自然の核心であり、調和こそが長続きする社会の本質です。
それは、自己を超えた何か永続的で崇高なもの、限界のある自我を超えた存在に繋がるものでしょう。
この理解は、私の人生に意味を与え、人間関係における困難を乗り越える力をくれました。特に、多くの人が「弱さ」の象徴だと考えたり、疑問を抱いたりする「無条件の愛」を受け入れる勇気を持てるようになったのです。
相互寛容は、すべての時代、すべての人種にとって必要不可欠なものです。
マハトマ・ガンジー
一方で、私は社会の調和を重視しつつも、個性や孤独の大切さも認識しています。実際、今の私は親しい友人が多くいるわけではなく、たまに知り合いと連絡を取る程度です。
一人の時間は、私にとってエネルギーを充電し、自分自身や周囲の世界について深く理解する機会となります。
他者との交流を楽しむ一方で、静かな内省の時間も大切にしています。
おそらく、私は自己充足的で「ストイック」な性格なのでしょう。友人が作れないわけではなく、必要であれば普通に会話や議論もできます。
むしろ、私は量より質を重視しているだけなのだと思います。過剰なおしゃべりやゴシップは、時間の無駄、あるいは「無知」の表れと考えてしまうのかもしれません。
世界観と人生観
スピリチュアリティ
私のスピリチュアルな旅路は、幾多の曲がりくねった道を通ってきました。保守的なカトリックの家庭で育ち、近所の99%がカトリック信者という環境の中で、厳格な教義と堅苦しい信念に囲まれていました。
生活の中心は教会であり、そこでは規範への従順が当然とされていました。カトリック以外の、あるいは常識外れの見解は全く受け入れられず、口汚い批判の対象となることもしばしば。結果として、若い頃の私はスピリチュアリティや世界そのものに対する理解が非常に限定的なものでした。
子供の頃、一度は聖職者になることを考えたこともあります。それは母が持ち出したアイデアでした。おそらく、私が司祭になることで家族が近所の人たちから「立派」と思われ、尊敬されるのではないか、と彼女が考えたからでしょう。
正直に言えば、その時私はあまり深く考えていませんでした。ただ単に、司祭になることが「かっこいい」ことで、自分を「よく見せる」ものだと思っていたのです。今思うと、なんて空虚な考えだったのでしょう。
成人してから、一度は修道院に入ることを真剣に考えた時期もありました。それは、初めて勤めた会社でスキャンダルに巻き込まれた後のことです。しかし、今振り返ると、その動機は高潔な生き方や他者への奉仕をしたいという願いではなく、ただ現実から逃げ出したかっただけだったと気づきます。
…
このように、私のスピリチュアルな視点は紆余曲折を経てきましたが、転機は地元を離れて新しい視点や哲学に触れるようになった時に訪れました。それまでの固定観念が揺さぶられ、存在の本質について好奇心をかき立てられました。
人生の意味
そしてある時、運命的にスピリチュアルな師匠と出会いました。その人は仏教徒で、かつての上司の一人でした。ランチタイムの会話の中で彼は、輪廻転生や縁起などの概念について話してくれました。
これらの考え方は、伝統的なキリスト教の教えにはあまり馴染みがありませんが、私はそれを受け入れることにしました。理由はいくつかあります。一つには、それらがすべての存在の相互関係、世界の循環的な性質、そして人生の苦しみの原因(そしてその苦しみから解放される方法)を思い出させてくれるからです。
また、これらの信念は、私が長年疑問に思っていた問い――すなわち、なぜ私は日本に対して不思議なほど深いつながりを感じるのか――に対する納得のいく説明を提供してくれるからでもあります。
- ライフスタイル
なぜか私は昔から日本の文化や哲学に惹かれてきました。友人たちが「日本」と聞いて真っ先にアニメやテクノロジーを思い浮かべる中、私はむしろ日本人の生き方に魅力を感じてきました。「我慢」「生きがい」「こだわり」「和」といった概念が、私の内面で深く共鳴しているのです。それが単なる偶然だと言い切るには、あまりにも神秘的です。
- 言葉遣い
私が日常的に話す英語や母国語において、気づけば日本語的な表現や言い回しに似た言葉を多用していることに気づきました。例えば:
-「I think/ I guess/ I assume/ I suppose」(と思う)
-「Maybe」(かもしれない、でしょう)
-「I might say/ It can be said that」(と言える)
-「Not necessarily」(わけではない)
-「The thing named/ called」(というもの)
-「It seems that」(らしいよ)
-「Somehow」(どうにか、何とか)
これに関しては、意識的に「そうしよう」と努力したことは一度もありません。ただ自然にそうなっただけであり、日本語や日本文化を学ぶよりもはるか以前からの習慣なのです。
- 間接性と礼儀
さらに、私は間接的な表現を好み、断定的な意見を避ける傾向があることに気づきました。親しい人からも「典型的な日本人っぽいね」と言われたことがあります。たとえば、過剰に礼儀正しい態度や、会話で控えめな姿勢、人を傷つけるのを恐れる慎重さなどです。
- 武士の精神
私の内面には「サムライの精神」が宿っているような気がします。挑戦的なことに挑むアイデアが浮かぶと興奮し、困難に思えるタスクでも簡単には引き下がりません(ただし、過去に試して失敗したものや、意味がないと感じたものを除きます)。
高校時代のある日、地理の授業で日本について学んだ後、先生が「日本の文化的特徴について作文を書いてください」と宿題を出しました。
そのとき私が選んだテーマは「武士道」でした。
その理由は今でもよく分かりません。当時の私は、日本についてほとんど知識がなかったのです。宿題を受け取った後、日本の名物についていろいろ調べてみましたが、特に印象に残るものはありませんでした。唯一、「武士道」の概念に出会ったときだけは、心の中で火花が散ったような感覚がありました。
それが単なる無意識の働きだったのかは分かりません。いずれにせよ、それが当時の私が選んだ道でした。
…
これまでの人生経験を振り返ると、日本文化と非常に奇妙なつながりを感じざるを得ません。そのため、「これがただの偶然なのか?」と自問することがあります。
過去世によるものなのか、あるいは共通する精神的な遺産なのか、それとも何か別のものなのか――その答えを私は断言できません。
しかし、このことについて考えるうちに、なぜか自分の人生に意義や方向性を見いだせるようになりました。それが日本について学び続ける理由を与えてくれるのです。もしかすると、いつかその真実を知る日が来るかもしれませんよね?
人生の意味
とはいえ、自分が過去世で日本人だった可能性を考えたとしても、それは本質的には重要ではないと気づきました。なぜなら、それは過去の話であり、もう変えられないからです。
仮に過去世があったとしても、そこで起きたことはすでに終わっています。だからこそ、私にとって重要なのは、過去の経験から学び、今の行動を変えることだと思っています。
ギリシャの哲学者プラトンの輪廻転生に関する考えを読んだことを思い出します。彼の仮説では、人間はもともと天界に属していた存在であり、罪を償い、一定の教訓を学ぶために物理的な世界に送られたと言われています。そして、その学びの過程は一生で終わることはなく、輪廻を繰り返しながら魂が最終的に解放されるまで続くのだそうです。
この考えを振り返ると、カトリック教義における「煉獄」の概念を思い浮かべます。煉獄とは、神の恩寵のもとに死んだものの、天国に入る前に罪を清める必要がある人々のための「浄化」の状態を指します。
輪廻転生と煉獄の間には、何か共通点があるように思えます。それは、もし未完成の状態であれば、まだ旅は終わらないということ。ある一定の純粋さや悟りに達するまで、その旅は続くのです。
こうした類似点を考える中で、私はプラトンの思想に込められた重要なメッセージを見いだしました。それは「学び」「成長」「自己完成」が人生の本質であるということです。
たとえ煉獄や輪廻転生が存在しなかったとしても、それらの示唆する意味を考えることによって、自分自身を日々成長させるための指針と動機を得ることができました。
教えの真偽そのものではなく、そこから引き出される意味が重要なのです。それは、人生はただ単に存在するだけでなく、自分自身をより良くしていく旅であるという認識を与えてくれます。
現在の人生の前に何があったのか(もし過去世があれば)や、自分が死んだ後に何が起きるのか――それは分かりません。しかし、それは重要ではないとも思います。
マルクス・アウレリウスが言ったように:
善き人生を生きよ。もし神々がいて、彼らが公正であれば、あなたがどれだけ信仰深かったかではなく、あなたの徳に基づいて歓迎するだろう。もし神々が不公正であれば、彼らを崇拝する必要はない。もし神々がいなければ、あなたは去るだけだが、愛する人々の記憶の中に高潔な人生が残るだろう。
こうして年月が経つ中で、私はキリスト教、仏教、アニミズム、武士道、人間主義の要素をブレンドした個人的な宗教観を築いてきました。カトリックの基本的な価値観は依然として大切にしつつ、他の伝統から自分に響く教えを取り入れることで、より包括的な精神的アプローチを受け入れるようになりました。例えば:
- 仏教における中道、無常、無我、マインドフルネス、執着からの解放
- 神道やベトナムの民間宗教で実践される自然や祖先への敬意
- 江本勝の提唱する「波動」
私の考えでは、神が望むなら、輪廻転生をさせることも可能だと思います(運命や未解決の使命、罪の償いなど、理由が何であれ)。そのため、輪廻転生とキリスト教の間に大きな矛盾はないと感じており、すべての宗教はある種の真実を語っていると強く信じています。
宗教は言語に例えられると思います。キリスト教であれ、仏教であれ、神道であれ、無神論であれ、最終的には同じことを目指しているのです。
倫理や優しさのような人間の可能性を信じている限り、どの宗教を信じているかは重要ではありません。
自分を超えた何か偉大なものに向かって努力している限り、あなたは信仰者です。そして、あなたの人生には意味が生まれ、どんな困難にも立ち向かうための「アンカー」が得られるでしょう!その結果、社会全体がより良い場所となるのです!
世界は素晴らしいところで、そのために戦うだけの価値がある。
アーネスト・ヘミングウェイ
対人関係
私はベトナム南部の都市部に住んでいますが、私の地域の生活様式は、依然として北部の伝統的な村のそれに近いものがあります。
- 外部の人々との接触はほとんどなく、生涯を「村」の枠内で過ごす人も少なくありません。
- 他の家庭で起きる出来事に敏感で、それについての噂話を楽しむ人々が多いです。
- 「村」の中での結婚は奨励される一方で、「外部の人」との結婚は反対される傾向にあります。長老たちは、「宗教が違う」「生活スタイルが合わない」「子育ての問題」「信仰心を失うリスク」「不良化のリスク」などの理由を挙げて、外部との結婚を避けさせようとするのです。
このように、規範に従い、同調することが重視される環境では、判断や不寛容な心が生まれやすくなります。そのため、私自身もかつては、異なる信念を持つ人や型破りなライフスタイルを送る人々に共感することが難しく感じていました。
さらに、私は他人の過ち、とりわけ自分の説いたことを実践しない「偽善者」と見なした人々を批判的に見る傾向がありました。地元や学校、職場などで「偽善者」と思われる人々にたくさん出会った結果、人間の本質について少し皮肉的な見方を持つようになったのです。
しかし、時間が経つにつれて、私の人間観は少しずつ変化していきました。多くの人々、特に私の精神的な師匠のおかげで、共感や思いやりの大切さを学ぶことができました。人を判断したり、無関心でいるのではなく、たとえその人の信念や価値観、行動が期待と異なったり、社会の規範から外れていたとしても、優しさと理解をもって接するべきだと気づかされたのです。
人生の意味
ある日、ニュージーランドでの出来事に関するLinkedInの投稿を見たことを思い出します。16歳の少女が妊娠数か月目に入り、家族が赤ちゃん用品を購入する余裕がなかったため、SNSで助けを求める投稿をしました。
驚いたことに、その投稿に寄せられた20件ほどのコメントには、悪意や皮肉が一切ありませんでした。不快な発言はなく、皆が困っている人を助けることに集中していました。
その人々の文明的な姿勢に深く感銘を受けました。私の地元の保守的な地域では、こんなことはまずありえません。自称「道徳的な」人たちには到底できないことです。
結局のところ、利他主義や思いやりこそが人間を他の存在から際立たせる特別な資質です。私たちは、従来の正義や道徳の基準を超える能力を持っているのです!
この出来事を振り返ることで、コミュニティの一員として生きることの本当の意味について、多くのことを理解することができました。正直さや誠実さを大切にしつつも、私はより寛容で、批判的でない心を持つようになりました。誰にでも過ちはあります。重要なのは、非難するのではなく、支えたり励ましたりすることです。
これこそが、人生を最大限に生きるということです!
もしこの教訓を学び、「四無量心」(慈・悲・喜・捨)のような原則を実践できるなら、最も気まずい人間関係や状況の中にさえ、意味を見いだすことができるでしょう!
目的
長い間、私の人生は外部からの承認や物質的な成功に駆り立てられていました。たとえば、大学の専攻を選んだ理由も、自分の情熱からではなく、親を喜ばせるため、そして近所の意地悪で口うるさい人々から親が噂されるのを防ぐためでした。
当時の私の多くの選択は、他人に「良く見られたい」という思いだけで成り立っていました。そのため、物事がうまくいかず、計画通りにいかなかったとき、まるで世界の終わりが来たかのように感じていました。
今振り返ると、それは自分の価値や人生の意味を、内面的なものではなく、外部のつまらないことに依存していたからだと気づきました。
大学を卒業して数年後、私はフルタイムの仕事といくつものパートタイムプロジェクトの間を絶えず行き来する、終わりのない仕事のサイクルに陥りました。挙句の果てには、オフィスの時間さえも個人的なプロジェクトに充ててしまうほどでした。(皮肉なことに、私の同僚の多くも同じことをしていました。)
その結果、リラックスしたり、ワークライフバランスを取り戻す時間がほとんどなくなってしまいました。たしかに、多くのお金を稼いだおかげで食べることや使うことに不自由はありませんでしたが、心の中は完全に空虚で孤独感に苛まれていました。
幸いなことに、ある日、私は人生の儚さについて考え、ある否定できない真実に気づきました。このままでは、自分の「遺産」は何も残らないだろう、と。
個人的な成功や所有物に執着する代わりに、私は何か違うことをしなければならないと感じました。それは、コミュニティに貢献するようなことです。
人生の意味とは、お金や名声を追いかけることではなく、あらゆる瞬間に満足感を見出し、いつ「旅立ち」(すなわち死)を迎えても準備ができている状態でいることだとわかりました。ジェームズ・ボールドウィンが言ったように:
いつの日か、私たち一人ひとりにとって、太陽が最後の最後に沈む時が来る。
同時に、あらゆる期待を手放し、仕事や他の些細なことに深入りしすぎないことも必要です。これは、価値のないパートタイムの仕事を断ることができなかったことで、一時期、私は狂気のような状態に陥った経験から学んだ教訓です。
それ以来、私はよりミニマリストなライフスタイルを受け入れ、物質的な所有物よりも体験を優先するようになりました。また、感謝の気持ちと満足感を育む努力も続け、自分の人生にある多くの恵みに気づくようになりました。
…
これが、私が自分の「道」を見つけ、これまで歩んできた方法についての共有になります。少し長くなりましたが、私の話を通じて、皆さんが自分の内なる核と向き合い、反省するきっかけになれば幸いです。
ヴィクトール・フランクルが言ったように、「人生の究極の意味」を見つけ出すのは非常に困難であり、時には無駄な努力かもしれません。それよりも重要なのは、常に振り返り、その瞬間瞬間で自分にとって意味のあるものを見つけることです。
人が抱く意味の感覚は時々刻々と変化するかもしれませんが、最終的には、その人が自分らしさを失わない限り、必ず本質的な核(「道」)を持ち続けると私は信じています。
あなたの場合はどうでしょうか?あなた自身の「道」は見つかりましたか?もし見つかっているなら、それを受け入れていますか?そして、その「道」を歩み続けるために、あなたの前に立ちはだかる障害を乗り越える覚悟はありますか?
生きる意味がわからない理由
「なぜ、生きる意味を見つけるのはこんなにも難しいのだろう?」と考えたことはありませんか?
どんなに頑張っても一日を楽しむ理由が見つからず、時には現実から逃れるために死を思い描いてしまうことさえあるかもしれません。
確かな答えをお伝えすることはできませんが、ここでは多くの人が生きる意味を見失う理由のいくつかを挙げてみます。もし以下の状況に心当たりがある場合は、ぜひ立ち止まって考えてみてください。
無明/ 無知
私はかつて次のような寓話を読んだことがあります。
ある日、学識高く、数学、物理、コンピュータなどの知識に長けた大学教授が、船で川を渡っていました。船頭は学問とは無縁の、川で渡し舟を操ることを生業とする男でした。
教授は船頭を見て、彼の学のなさを軽蔑し、こう言いました。「お前は数学も物理もコンピュータも知らないのか?人生の半分を無駄にしているな!」
船頭は教授の言葉に特に反論することもなく、黙々と船を漕いでいました。しかし、川の真ん中あたりまで来た時、急に天候が変わり、激しい嵐に見舞われました。船は大きく揺れ、今にも転覆しそうになりました。
船頭は教授に尋ねました。「先生、あなたは泳げますか?」
教授は慌てて答えました。「いや、泳げない。」
すると船頭は言いました。「先生、あなたは泳げないのですか?それなら、あなたは人生を丸ごと無駄にしましたね!」
直後、船は転覆し、教授は溺れてしまいました。
この寓話は、無明や無知――すなわち本当に重要なことへの無自覚――の結果を端的に示しています。教授は、自身の知識とエゴに囚われ、本質よりも表面的なものを重視していました。その結果、自然の厳しさに直面したとき、彼の知識は何の役にも立たなかったのです。
私たちも、この教授のように虚栄心に駆られて何かを追い求めたことがないでしょうか?
次に、黒澤明監督の映画『生きる』の物語に目を向けてみましょう。
30年間、主人公の渡辺勘治は官僚的な仕事に埋もれ、「生ける屍」のように暮らしていました。家族とも喜びとも断絶し、息子のために働いているつもりでしたが、現実には感情的なつながりはほとんどありませんでした。息子はむしろ、父が早く亡くなれば遺産を相続できるとさえ思っていました。
渡辺が自らの悲惨な状態に気づいたのは、癌と診断され余命6ヶ月と宣告されたときでした。その瞬間、無知がどれだけ自分の人生を蝕んでいたかを思い知らされます。
ひと思いに死んでやれと思っても死ねません。死にきれない。私はこの歳までなんのために・・・
彼は「生きる」意味を理解しようと必死になりましたが、答えは見つかりません。若い同僚の小田切がなぜ人生を楽しめるのかすら分かりませんでした。
渡辺もまた、教授のように「盲目」――すなわち、何が本当に重要なのかを認識できない状態――に囚われていました。その結果、自分自身や他者とのつながりを弱めてしまったのです。
多くの場合、人生の意味を探す中で、私たちは表面的な動機を深い欲求と間違えてしまいます。かつての私も、マーケティングのキャリアを選んだ際に同じ過ちを犯しました。
表向きはマーケティングの仕組みに興味があると思っていましたが、実際には学び、自己成長し、人間心理を理解し、社会に貢献したいという深い欲求が原動力でした。
お金やビジネスではなく、「学びと成長」「心理学」「哲学」――それが本当に私の心を動かしていたのです。
人生の意味
「自分には本当に分からない」と思う方もいるかもしれませんが、心の奥底では既に知っているのです。ただ、それに気づいていないか、認めたくないだけです。
日々の忙しさに追われ、内なる自分とのつながりを見失ってしまった場合は、一度立ち止まって内省することが必要です。
パウロ・コエーリョの『アルケミスト』で、サンティアゴがファティマを見た瞬間に運命の人だと気づいたように、魂は本能的に自分に共鳴するものを知っています。ただ、その内なる声に耳を傾けるだけでいいのです。
本当に大切なことに焦点を当て、自分の価値観に従って行動することで、無明から脱却し、意味のある人生に向かって進むことができるのです。成功や他者からの承認は、本当に価値のあるものの前では、些細なものに過ぎません。
成功を目指してはならない 、成功はそれを目指し目標にすればするほど、遠ざかる。幸福と同じく、成功は追求できるものではない。それは自分個人より重要な何者かへの個人の献身の果てに生じた予期しない副産物のように...結果として生じるものだからである。
ヴィクトール・フランクル
自己への過度の集中
トーマス・フリードマンは、かつて世界が「熱く、平坦で、混雑している」状態にあると述べました。そして、人類を差し迫る危機から救うためには、「グリーン革命」が必要だと主張しました。
確かに環境問題に対する配慮は不可欠です。しかし私の考えでは、より根本的な革命――つまり、人間の心と精神の変革――が必要です。
現代社会は、「普通」であることに満足できない段階にまで達しています。私たちは常に「もっと」を求め、新しい刺激を追い求める状態にあります。
この精神的な「飢え」は、私たちの文化のさまざまな側面に表れています。その一例が音楽業界です。穏やかなメロディーはもはや私たちを満足させません。代わりに、より刺激的で過激な音楽を求めるようになっています。
スポーツも同様です。より危険でスリリングな競技でないと関心を引けず、楽しむことができません。
映画産業も同じ問題に直面しています。「アベンジャーズ」シリーズのような大ヒット作は、財政的には成功しているものの、しばしば派手な演出や特殊効果に頼りすぎ、深みのある意味や物語性を欠いています。私の師匠が言うように、これらの映画は確かに娯楽性は高いですが、本質的には浅薄であり、暴力やセクシュアリティ、その他のタブー要素を駆使して観客を刺激しているだけです。
一方で、マーティン・スコセッシの『沈黙 -サイレンス-』のような映画は、人間性に深く迫るメッセージを持ちながらも、観客を引きつけるのに苦労しています。
私たちは、興行収入やSNSの話題性といった「見せかけの指標」を重視し、芸術作品の本来の目的――人生について考えさせ、内省を促し、精神を養う――を忘れています。
言い換えれば、映画などの芸術は、精神にとっての「ジャンクフード」になってしまったのです。
このような表面的な刺激への嗜好は、情報の消費の仕方にも表れています。短くてキャッチーなSNS投稿やTikTok動画を好み、そこに含まれる浅薄なメッセージを「真実」と見なしてしまう。一方で、長文の記事や研究論文のようなより深みのある内容は敬遠されがちです。
この結果として、私たちの知的能力が低下し(いわゆる「脳の腐敗」)、意味のないものが意味のあるものと見なされ、逆もまた然りとなっています。
オックスフォードが選ぶ2024年の言葉「脳の腐敗(Brain rot)」
これらすべての例は、結局のところ、自己への過度の集中――特に、表面的で常に刺激を求める自己――に帰着します。私たちは、持続的な経験よりも即時的な満足を優先しているのです。
例えば、スーパーヒーロー映画の人気は、アクションやスリルを重視し、キャラクターの成長や複雑な物語を軽視する傾向を如実に表しています。これらの映画は、日常生活の複雑さや個人的な課題、責任に向き合うのを避けたいという私たちの欲求を反映しています。
しかし、皮肉なことに、こうした短期的な満足の追求は、終わりのない不満のサイクルを生み出します。さらなる刺激を求め続けることで、ますます深まる空虚感を埋めようとするのです。
長期的な幸福を無視することで、忍耐力や粘り強さが損なわれ、結果として真のつながりを恐れ、虚栄心と幸せを混同し、人間の深い価値観を見失ってしまいます。
その結果、私たちは人生の意味を見つけるのに苦労するのです。
実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。
ここまで読んだ方の中には、そう思われる方もいるかもしれません。正直に言えば、私自身もこのメッセージを受け入れるのは容易ではありません。
ときどき、荒野で叫び声を上げる一人の声のように感じます。それでも、ほとんどの人が私の呼びかけに耳を傾けなくても、私は話し続けます。いつか、どこかで、誰かが私のメッセージを理解してくれることを願って。
その希望こそが、私の努力に意味を与えているのです。
真の自己実現は、自己を忘れることで実現される。
ヴィクトール・フランクル
成功に人生の意味を見出そうとする傾向
『ハリー・ポッターと賢者の石』の物語の中で、主人公ハリー・ポッターは、賢者の石を守るためにヴォルデモート卿と戦い、気を失います。その後、ホグワーツの医務室で目を覚まし、校長のダンブルドアと話をする中で、守ろうとしていた賢者の石が破壊されたことを知らされ、愕然とします。そのとき、ダンブルドアはこう語ります。
よいか、《石》はそんなに素晴らしいものではないのじゃ。欲しいだけの富と命だなんて!大抵の人間が何よりもまずこの二つを選んでしまうじゃろう ---- 困ったことに、どういうわけか人間は、自らにとって最悪のものを欲しがる癖が有るようじゃ。
私たちは、富や長寿といった外的な成功を、勇気や優しさ、知恵といった内面的な価値よりも優先しがちです。そして、外部の業績や物質的な豊かさこそが価値ある人生の鍵だと誤解し、自己の成長や人間関係の本質的な価値を見落としてしまいます。
この考え方は、特に現代社会で顕著です。自己価値が仕事での成功と結びついてしまう結果、多くの人が不必要なプレッシャーを感じ、「フォーカス・イリュージョン」という問題に陥ります。これは、人生のある特定の側面(例:昇進、財産、社会的地位)に過度に執着し、それが幸せの全てを決定すると信じ込んでしまう現象です。
「Xを達成すれば幸せになれる」と思い込むことで、私たちはその目標を失えば途方に暮れ、絶望に駆られることさえあります。
この思い込みに疑問を投げかける時が来ています。作家・茂木健一郎氏はこう述べています。
朝の空気、一杯のコーヒー、差し込む陽の光… この全てを豊かさと感じられる人だけが、人生の本当の喜びを味わうことができる。(The morning air, the cup of coffee, the ray of sunshine… Only those who can recognize the richness of this whole spectrum really appreciate and enjoy it)
人生の意味
人生の意味は、世間からの認知や壮大な成功に限る必要はありません。それは、日常の中のささやかな喜び、例えば友人の笑顔、新鮮な朝の空気、一人静かに過ごすひとときの中にも見出すことができます。
さらに、その意味は社会の規範に縛られるものではありません。茂木氏が指摘するように、北朝鮮のような権威主義的な社会や、日本のような同調圧力の強い文化の中でも、人々は独自の方法で人生の意味を創り出しています。例えば:
- 日本の多くのサラリーマンは、週末にコミックマーケットで創作活動を楽しみながら、自分の喜びを見つけています。
- 安定したが退屈な会社員生活を辞め、「脱サラ」して家事や趣味に打ち込む男性たちは、社会の期待を超えて自分らしい道を歩む例です。
どんな状況であれ、自分を受け入れ、他人の期待から解放されることができれば、自分自身の人生に意味と目的を見出すことができるのです。
努力するプロセスそのものを幸福の源にすることができたら、あなたは人生で最も重要な挑戦に成功したと言えるでしょう。(If you can make the process of making the effort your primary source of happiness, then you have succeeded in the most important challenge of your life)
茂木 健一郎
脆弱な価値観
ヴィクトール・フランクルの著書『夜と霧』を初めて読んだとき、序文にこんな一節がありました。
アーサー・ミラーの戯曲『ヴィシーでの出来事』に、ナチス占領下の町で中産階級の専門職の男性が登場する場面があります。彼は自身の大学の学位証書や有力者からの推薦状などをナチス当局に示します。
ナチスの役人が彼に問います。『それがすべてか?』
男性が頷くと、役人はそれらをゴミ箱に放り投げ、こう言いました。『よし、これでお前には何も残らないな。』
他人の評価に自尊心を依存させていたその男性は、精神的に打ちのめされます。
この一節を通じて、外的な要因に基づいた脆弱な価値観が、プレッシャーの下でいかに簡単に崩壊し、人を意味のない状態に追いやるかを深く考えさせられました。一方で、内面的に強く確立された自己価値は、どんな絶望的な状況下でも私たちを支える力となるのです。
フランクルの本の中には、次のようなエピソードが記されています。
ある時、零下17℃の森で凍りついた土を掘り起こし、水道管を敷くための作業をしていました。私はすでに肉体的にかなり弱っていました。
その時、丸々とした赤ら顔の作業長が現れました。その顔は確かに豚の頭を思い起こさせるものでした。彼は暖かそうな手袋をつけ、厳しい寒さの中でしばらく私を黙って見ていました。嫌な予感がしました。私の前には、自分が掘った土の量がそのまま積み上げられていたからです。
彼はやがてこう言いました。『この豚め、ずっとお前を見ていたぞ! 俺が教えてやる、働くってことをな! お前は地面を歯で掘ることになるだろう。動物みたいに死ぬんだ! 2日後にはお前を片付けてやる! お前みたいなやつは、一度もまともに働いたことがないんだろう? なんだったんだ、お前、クソ野郎? 商人か?』
私は無関心を装いましたが、彼の殺害予告を無視するわけにはいきませんでした。それで、私は姿勢を正し、彼の目を見つめながら答えました。『私は医者でした。』
『医者だと? 金をたんまり稼いでいたんだろうな。』
『実は、ほとんどの仕事は無料で、貧しい人々のための診療所でしていました。』
この言葉は多すぎたようです。彼は私に飛びかかり、怒鳴りながら私を殴り倒しました。彼が何を叫んだかは、もう思い出せません。
この一見些細に思えるエピソードは、重要な真実を示しています。絶望的な状況下でも、何らかの形で自己価値を感じることができる人間の精神の力です。収容所の過酷な環境では、囚人たちは物質的な所有物も、自由も、名前すら奪われ、単なる番号に成り下がりました。しかし、それでも人間の精神は自己を主張し続けることができたのです。
どんな極限状況においても、自分が本質的に価値ある存在であると知ること。それが、理不尽な環境の中でも希望を持ち、生き抜く力を与えるのです。
人生の意味
ここで疑問が浮かびます。「強固な価値観」とは何を指すのでしょうか?
現代社会では、しばしば人の価値が「役立つこと」によって測られています。つまり、個人の貢献度がその人の価値を決定するという考え方です。しかし、フランクルが指摘したように、この考え方には非常に危険な側面があります。
もし、人間の価値を生産性や社会的な役割だけで定義してしまうと、「生産的でない」と見なされる高齢者、病気の人、障害のある人々を非人間的に扱う危険性があります。そして、このような思考は最終的に恐ろしい結末をもたらす可能性があるのです。
現代社会は成果志向で特徴づけられています。そのため、成功している人や幸せそうな人、特に若い人々を崇拝します。そしてそれ以外の人々の価値をほとんど無視します。このような姿勢は、“尊厳”における価値と、“有用性”における価値の決定的な違いを曖昧にしてしまうのです。
ヴィクトール・フランクル
人間の価値を外部的な貢献によって測るのではなく、すべての人間に内在する価値を認識する必要があります。
この原則は、岸見一郎氏の『嫌われる勇気』にも反映されています。この本では、人を「行為のレベル」(何をするか)で評価するのではなく、「存在のレベル」(その人がそこにいることそのもの)で見るべきだと主張されています。他人を、その行動や能力に関係なく、ただ「存在している」こと自体に感謝し、価値を見出すべきだという考え方です。
たとえば、あなたのお母さんが交通事故に遭ったとします。容態は深刻で、命が危ぶまれる状況です。そのとき、あなたは『母は何をしたのか?』などとは考えないでしょう。おそらく、『母が無事でいてくれたら』『今生きていてくれるだけで十分だ』と思うはずです。
これが“存在のレベル”で感謝するということです。たとえ危篤状態で何もできないとしても、生きているだけで家族やあなた自身の心理的な支えとなり、存在そのものが意味を持つのです。
(Suppose your mother has a car accident. Her condition is serious, and her life may be in danger. At a time like that, you would not be wondering if your mother ‘did something’, or anything of the sort. More than likely, you will just be thinking you’ll be glad if she makes it, and you’re glad she is holding on right now.
…
That’s what it means to be grateful on the level of being. Your mother might not be able to do anything in her critical condition that would be considered an act, but just by being alive, she would be supporting the psychological state of you and your family, and would therefore be of use.)
私たちが、外部的な成果や有用性に関係なく、すべての人、そして自分自身の内在する価値を認識することができれば、より強固で持続可能な価値観を育むことができるでしょう。それは、「何をするか」ではなく、「誰であるか」にかかっています。
これこそが、長く続く意味ある人生への鍵です。
高齢者を哀れむ理由はありません。それどころか、若者こそ彼らを羨むべきです。確かに、高齢者には未来の可能性はありません。しかし、彼らにはそれ以上のものがあります。未来の可能性ではなく、過去の現実――実現された可能性、満たされた意味、そして築き上げられた価値があるのです。
ヴィクトール・フランクル
現代生活の矛盾性
かつて、ニーチェの「神は死んだ」という宣言は大きな議論を巻き起こしました。これは、伝統的な価値観の源泉(宗教、共同体、既存の社会構造)が力を失いつつあった時代の象徴であり、人々の心にぽっかりと空いた空洞を映し出していました。
この言葉の解釈には様々な見方がありますが、私にはそれがある基本的な人間の必要性を浮き彫りにしているように思えます。それは、人生の土台となるしっかりとした個人哲学を持つことの重要性です。
これがなければ、人は存在に対する不安に脆弱になってしまうでしょう。
今日、人類は同様の課題に直面しています。私たちの世界は、テクノロジー、自動化、そして経済危機への対応としてのコスト削減によってますます形作られています。この状況は一つのパラドックスを生み出しました。私たちはこれまでになく多くの物質的な快適さと機会を手に入れている一方で、特に若い世代の多くが人生の意味を見失い苦しんでいるのです。
この問題の原因は、いくつかの要因に起因していると私は考えます。
- 働くという行為の性質が劇的に変化しました。自動化が新しい常識となる中で、人々は自分の仕事から目的意識や充実感を失いつつあります。
- 人工知能(AI)の台頭はさらに状況を複雑にしています。未来の仕事はどのような形になるのか?そして、人間の労働は果たして必要とされるのか?
- また、多くの企業が利益最大化を過度に追求するあまり、非人間的な職場環境を生み出しています。私自身もフルタイムの仕事を通してその現実を目の当たりにしました。今や多くの従業員が組織から疎外感を抱き、自分の仕事をただの「手段」としか感じられず、内面的な価値を見出せなくなっています。
急速に変化するテクノロジーに支配される世界で、私たちはどうやって意味を見つければいいのでしょうか?
進歩が経済成長だけでなく、人間の繁栄に寄与するためには、何が必要なのでしょうか?
テクノロジーが私たちの目的意識や人間関係をさらに侵食するのを、どうやって防げるのでしょうか?
その答えは、意味が外部から与えられるものではないということを認識することにあると思います。意味は教義からも、社会的な規範からも、仕事からも与えられるものではありません。
むしろ、意味は自分自身の内側から生まれるものです。私たちが真にコントロールできるのは、内なる自分だけなのです。
これは、仕事や宗教といった外部の要素から意味を見出してはいけないということではありません。しかし、私が強調したいのは、自己責任と自己理解の重要性です。つまり、外部の期待に無批判に従うのではなく、批判的に自分自身を見つめ直すことです。
たとえば、私はキリスト教徒として信仰を通じて多くの人生の教訓を学びました。しかし、どの信仰体系であれ、その教えを盲目的に受け入れるのではなく、自分自身で吟味し、納得することが重要だと考えています。
大切なのは、自分の意味を「継承する」のではなく、自分自身で「創り上げる」ことです。自分の人生哲学を持つことなのです。
汝自身を知れ。
ソクラテス
他人の影に隠れて受け身の人生を送るのではなく、私たちは、自分の価値観に共鳴する活動に取り組み、質の高い人間関係を築き、自分を超えた何かに貢献することで、目的意識を積極的に育むべきです。
同時に、人間の幸福をテクノロジーの進歩や経済的繁栄と同様に優先する社会を築く努力をしなければなりません。さもなければ、自殺や精神疾患といった問題が世界的な危機へと発展してしまうでしょう。
人生の選択肢が多すぎること
人生の意味を追い求める中で、私たちは皆、基本的な問いに直面します。それは「自分は人生で何を求めているのか?」という問いです。
現代では、多くの人が「充実したキャリア」「愛情に満ちた家庭」「旅行」「自己成長」など、数多くの望みを抱えています。しかし、時間も資源も有限である以上、どれかを選ばなければなりません。
過去の社会では、社会的制約や経済的事情によって、そもそも選択肢が限られていることが一般的でした。しかし、現代社会では状況が大きく異なります。
便利な時代になった反面、選択肢が多すぎるという新たな問題が生まれています。あまりに多くの道が目の前にあると、人はしばしば決断できずに立ち止まってしまいます。
例えば、「この仕事を選ぶべきか、それとも別の仕事か?」「キャリアを優先すべきか、それとも家庭か?」「安定を求めるべきか、それとも冒険を追求するべきか?」など、複数の選択肢に引き裂かれ、多くの人が動けなくなり、内的な葛藤に苦しみ、最終的には人生の意味を見失ってしまうことがあります。「すべてが可能」であると感じるとき、「何も本質的ではない」と感じてしまうのです。
このジレンマを解決する方法の一つが、意識的に選択肢を減らすことです。マーシャル・ゴールドスミス博士のベストセラー『The Earned Life』では、これを「選択肢のない状態をつくる力」と表現しています。この考え方はシンプルです。選択肢が多すぎると、圧倒され、不安やストレス、コントロールを失った感覚を抱きがちになります。そのため、意図的に焦点を絞ることで、本当に大切なことに集中するための心の余裕を作ることが鍵になります。
これは、夢を諦めたり、妥協して生きたりすることを意味するのではありません。むしろ、自分の核心的な価値観やビジョンに沿って、優先順位を明確にすることを意味します。
本質的な決断と些細な決断を区別することが大切です。例えば、毎日何を着るかに過度に時間を費やすのは無駄です。その時間をもっと価値のある活動に使うべきでしょう。
このアプローチを実践したいと考える方のために、以下の原則をいくつか挙げます:
- 人生をシンプルにすること:物理的、精神的な空間を整理し、本当に喜びや満足感をもたらすものに集中することです。たとえば、新しい物を買い続ける代わりに、個人的な経験や人間関係に投資するべきです。
- 今この瞬間に注意を払うこと:マインドフルネスを実践することで、衝動的な欲求や外部からのプレッシャーに振り回されず、より意識的な選択が可能になります。たとえば、FOMO(見逃すことへの恐れ)で無意識にSNSをスクロールする代わりに、読書や自然の中で過ごす時間に使うべきです。
- 欠けているものではなく、持っているものに目を向けること:感謝の気持ちは、毎日の中の良いことに気づかせてくれ、さらに多くを求めるという欲求を減らします。これは、人生の意味を見つける上で大きな障害となるものを乗り越える助けになります。
- コントロールする必要性を手放すこと:すべてをコントロールすることは誰にもできません。不確実性を受け入れ、小さな一歩を踏み出すことが大切です。「人生は道を見つけてくれる」という信念を持つことで、前進することができます。
充実した人生を手に入れるためには、広い視野、規律、そして犠牲を伴う選択をする必要があるのです。
マーシャル・ゴールドスミス
結果に対する過剰な熱意
人生は踊り手で人間は踊り。
エックハルト・トール
人間が陥りやすい間違いの一つは、「旅路」(意味)と「目的地」(目的)を混同してしまうことです。つまり、人生の意味を特定の結果にのみ結びつけてしまうのです。
しかし、実際に重要なのは、特定の目標を達成することではなく、毎日私たちを前進させる生命力や内なる強さです。結果ばかりに執着すると、現在の瞬間を楽しむ喜びが奪われ、豊かに生きる力が損なわれてしまいます。
目標の達成に過度にこだわるあまり、その過程を忘れてしまうことがあります。報酬を得たいけれど努力を惜しみ、勝利を望むが苦労はしたくない、そんな心理に陥りがちです。
その結果、困難に直面するとためらいが生じます。失敗や挫折を恐れるあまり、行動を起こすことができなくなるのです。
しかし、挑戦に向き合い、失敗から学び、困難を乗り越えることでこそ、人生の本当の意味を味わうことができるのです。自己成長のプロセスこそが、人生を豊かにしてくれるのです。
たとえば、作家になる夢を持ちながら、自分の作品が批判されたり拒否されたりすることを恐れて、一歩を踏み出せない人がいるとします。その人は、「忙しすぎる」とか「年を取りすぎた」といった言い訳をして、行動を先延ばしにします。恐れが彼の可能性を妨げてしまうのです。
確かに拒絶はつらいものですが、自己成長や自己発見のためには欠かせないものです。それによって決意が強まるか、より自分に合った道が見えてくるのです。だからこそ、勇気を持ち、一歩一歩小さな変化を積み重ねる必要があります。
人生は、ある意味でダンスに例えられます。転ばないためには、常に動き続ける必要があります。特定の場所に到達することばかり気にせず、ただ動き続けることで、気づけば自分がどれだけ遠くまで来たかに驚く日が来るでしょう。
反対に、結果に執着しすぎて「苦杯を飲む」覚悟を持たないと、浅はかで意味のない人生を送ることになりかねません。
人生とは自転車に乗るようなものだ。倒れないためには、動き続けなくてはいけない。
アルベルト・アインシュタイン
人生の意味
また、勝利を重視しすぎると、破壊的な思考に陥ることがあります。過度な競争心が芽生え、愛する人とさえも無用な争いをしてしまうのです。
たとえば、パートナーがつらい一日を過ごしたとき、共感を示す代わりに、自分の苦労話を持ち出して相手を打ち負かそうとすることがあります。こうした行動は、本来の支え合いを妨げ、関係の質を低下させてしまいます。
茂木健一郎氏は次のように述べています。
勝利への執念は、素晴らしいイノベーションを生む原動力となり得る。しかし、同時に、それは個人や社会に過剰なストレスや不安定さをもたらすこともある。
(A mindset with the drive to win can lead to great innovations. The same mindset can also lead to excessive stress and instability, both for individuals and society)
したがって、未来の目標を目指しながらも、今この瞬間を大切にするというバランスを取ることが解決策となります。旅路そのものを楽しみつつ、目標に向かって進むべきなのです。
たとえば、私自身、ジムに通い始めてからしばらく経ちます。目に見える体の変化はまだ劇的ではありませんが、それでも得られるものはたくさんあります。毎日少しずつ強くなっていく感覚や、通い続けること自体の規律、そしてトレーニングを終えた後の達成感です。
未来の結果だけでなく、現在の体験に目を向けることで、モチベーションを保ち、取り組みを継続する理由を見出すことができるのです。
過去にしがみつくこと
私たちはしばしば過去にしがみつこうとします。それがかつての成功であれ、幼少期に親から他の子どもと比較されたようなつらい記憶であれ、「過去に執着すること」が何かしらの力や自己の正当化を与えてくれるかのように感じてしまうのです。
しかし、真実はシンプルです。過去は過去であり、変えることはできません。自己慰めや自己憐憫が動機であれ、過去に執着することは、現在を受け入れ、前に進む妨げにしかなりません。
過去の記憶に囚われ続けると、心理的なパラドックスに陥ります。一方では変化を望むのに、他方では変化を恐れるのです。
言い換えれば、私たちは自ら不幸でいることを選び、変化を拒みます。それによって、人生の意味を見出すチャンスを自ら奪ってしまうのです。
過去があなたにアイデンティティーを与えてくれると考えるのも、未来が、救済の到来のような何らかの形での満足の可能性を秘めていると考えるのも、両方とも錯覚だ。
エックハルト・トール
多くの場合、何かに執着する理由は、「偽りの力を保ちたい」という願望にあります。たとえば、「引きこもり」という現象を耳にしたことがある方も多いでしょう。社会から完全に距離を置き、外界との関わりを断つ人々のことです。
引きこもりに至る理由はさまざまですが、彼らが「それを望んでいる」という可能性を考えたことがありますか?つまり、その状態が本人に何らかの利益をもたらしているということです。
中には、自分の状況に不満を感じつつも、頑なに家にこもり続ける人もいます。その理由は、家族やオンラインコミュニティから注目や同情を得られるからです。このような注目は一時的な「コントロール感」や歪んだ形のつながりを提供します。
しかし、本当の強さとは、現実に立ち向かい、世界と関わることから生まれるものです。前述の例で言えば、「普通に生きる」勇気を持ち、孤立している間に得た表面的な注目を手放し、人と交流する冒険に出ることです。
私たちは、過去の囚人ではありません。たとえば、心理学者ジークムント・フロイトのように、原因と結果の決定論を支持する人もいますが、アルフレッド・アドラーのように、人間には自己決定の能力があると説く人もいます。
つまり、私たちは状況に操られるのではなく、自らの反応を選ぶ力を持っているのです。
たとえば、ニック・ブイチチ氏やヘレン・ケラー氏のような人々を思い浮かべてみてください。極度の身体的障害に直面しながらも、それに縛られることを選びませんでした。むしろ、自分の制限を力とインスピレーションの源に変え、人生の目的と意味を見出したのです。
私たちの「始まり」が必ずしも「結末」を決定づけるわけではありません。過去の経験は今の自分を形作る要因の一つではありますが、それが運命を決定するわけではありません。
私たちには物語を書き換える力があり、新たな道を選ぶことができるのです。
人生の始まりはそんなに幸せじゃないかも知れないが、まだ決まったわけではない。残りの人生は君が選ぶんだよ。
予言のおばば|カンフー・パンダ2
人生の意味
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浅い個人哲学
かつて、「科学」と「哲学」を比較する非常にシンプルで興味深い比喩に出会ったことがあります。それはこういうものでした。「科学が核爆弾の作り方を教えてくれるとすれば、哲学はそもそもその行為をすべきかどうかを問うものである」。
この比喩から、哲学的な立場をしっかりと考える重要性が浮き彫りになると感じます。多くの人々は哲学を「実用的ではないもの」と見なす傾向がありますが、実際には哲学は日々の意思決定から根本的な信念に至るまで、私たちの生活のあらゆる面に触れるものです。
全体的でよく考え抜かれた個人哲学は、豊かな人生に近づけてくれます。一方で、硬直的な哲学はその逆をもたらします。
私自身の経験を例に挙げてみます。保守的なキリスト教の環境で育った私は、特に霊性や道徳に関することに対して、非常に厳格な考えを持っていました。「天国と地獄」や「正義」といった教義に執着し、信仰を持たない人々や、自分が「偽善者」とみなした人々に対して、どこか批判的であり、他者に対する思いやりを示すことに苦労していました。
そんな私が転機を迎えたのは、三度目の仕事を辞めた頃のことでした。このような硬直的な信念に加え、さまざまな要因が重なり、私は人生の意味を見失ってしまいました。怒りや失望の中で、多くの誤った選択をしてしまったのです。
私は信仰から距離を置き、教会に行くのをやめました。C.S.ルイスが若い頃に経験したように、霊的なものすべてから切り離されたのです。
仕事においても、「指示されたことだけをこなす」ミイラのような存在になっていました。同僚への関心は薄れ、仕事はただ生活を維持するための手段でしかありませんでした。
さらに、司祭や僧侶、教師、コーチ、心理学者など、道徳的な指導を与える人々に対しても疲弊し、皮肉な見方をするようになっていました。彼らを嫌ったり、彼らのメッセージを軽蔑したりしていたわけではありません。ただ、彼らの本物性や本当の動機に懐疑的だったのです。
結果として、私は“反抗者”となり、「光」、つまり人生の意味とのつながりを失ってしまいました。
皮肉なことに、そんな私を救ったのは仏教徒の霊的指導者でした。彼は私に人間性への信頼を取り戻すための貴重な哲学的教訓を教えてくれました。例えば、以下のようなものです:
- 誰かを偶像化しないこと
- 自分の価値は生まれながらにして内在していると理解すること
- 他者の教えから学びつつ、その欠点を模倣しないこと
その後、私は次第により思いやりのある世界観を持つようになりました。振り返ると、かつての自分や周囲の人々が「外部の世界」と接する機会がほとんどなかったことが、人生の多くの問題の原因だったのだと気付きました。
幸運なことに、指導者の助けや、「ライフ・オブ・パイ」やスコセッシ監督の映画『沈黙』といった芸術作品に触れることで、私の視野は大きく広がりました。
…
この話を共有する理由は、しっかりとした個人哲学を持つことの重要性を示すためです。それは特定の教えや教義に従うことではなく、調和の取れた生き方を実践することにあります。私たちは極端に走ることを避けるべきです。例えば、盲目的なボランタリズム、消費主義、あるいは過度な禁欲主義といったものです。その一方で、知識や真実を追求するバランスを保つことが大切です。
この考え方は、仏陀の「中道」の教えにも反映されています。極端な議論を避けること、それはほとんどの場合、満足や解放にはつながらないからです。結局のところ、多くの果てしない議論は人間の理解を超えた問いに基づいています。
18世紀の哲学者イマヌエル・カントは、「純粋理性の二律背反」という問題を提唱しました。彼によれば、人間は現実の本質を解釈しようとするとき、従来の論理を適用しようとすることで一連のパラドックスに陥るのです。そのうちの1つを例に挙げます。
- 定立(テーゼ):世界は時間的に始まりがあり、空間的に限界がある。
- 反定立(アンチテーゼ):世界は時間的に始まりがなく、空間的に限界がない。
一見、どちらか一方が正しければもう一方は間違いのように思えますが、カントはどちらの命題も論理的に証明できることを示しました。
- 定立の論証:世界に始まりがなければ、無限の時間が経過したことになりますが、無限の時間が経過することは不可能であるため、世界には始まりがあるはずです。
- 反定立の論証:世界に始まりがあるとすれば、その始まりの原因が必要です。しかし、その原因の原因、さらにその原因の原因…と無限に遡ることになり、結局始まりを説明することができません。したがって、世界に始まりはないはずです。
このように、どちらの命題も一見もっともらしく、論理的に反駁することが難しいのが二律背反の特徴です。
カントは二律背反を通して、人間の理性が経験の限界を超えて物事を推論しようとするときに陥る Antinomie を示そうとしました。人間の理性は、経験によって与えられた範囲内でしか正しく機能せず、経験を超えた事柄については Antinomie に陥ってしまうことを明らかにしたのです。
人間は、現実をありのまま(物自体)ではなく、自分に現れる形(現象)でしか知ることができません。そのため、二律背反のそれぞれの側面は同時に「正しくもあり、間違ってもいる」という矛盾を含んでおり、一方を他方よりも正しいと主張することは無意味なのです。
議論は確かに重要です(それこそが哲学の本質だからです)。しかし、その目的は視野を広げ、他者への思いやりを育むことであり、敵意や憎しみを助長することではありません。残念ながら、人々はエゴや政治的理由からそのような負の側面に陥り、歴史上、多くの「聖戦」を引き起こしてきました。
議論の本質は、「闇」ではなく「光」の中を進むためのものです。
前述のように、私は自分がどこから来たのか、断定的に言うことはできません。例えば、神による創造物なのか、歴史上の「無名の誰か」の転生なのか、ランダムな宇宙的出来事の産物なのか、あるいはまったく別の何かなのか。ただ一つ確かなことは、過去は変えられないということです。
人生の意味は、「過去」を振り返るのではなく、「未来」に向かって進むことにあります。今を受け入れ、これから来る未来を抱きしめることです。
硬直的な人生観は、充実した調和の取れた生活から私たちを遠ざけてしまいます。これは『小マールキヤ経』の教えにも表されています。「毒矢で射られたら、まずはその矢を抜くことが優先であり、それを誰が放ったのか、その矢がどのような素材で作られているのかを調べることではない」という話がそれを象徴しています。
「究極の真理」に執着するあまり、実際的な生活をおろそかにしたり、異なる視点を持つ人々を批判することがあってはなりません。すべてのものは無常であり、最終的にはすべてが過ぎ去るのです。
父がかつて言ったように、人間は冷蔵庫のように「冷たい面」と「熱い面」の両方を持っています。これが人間の本質です。そのため、極端、貪欲、他者の過度な理想化を避けながら、自分自身を改善し、執着を手放すことに注力すべきです。
世界が有限か無限か、制限されているかいないか、それは解放の問題には関係ありません。
釈迦
同時に、一つ強調したいのは、「無執着」に執着しすぎてはいけないということです。それは皮肉にも別の形の執着に過ぎないからです。それよりも、不完全さを含めて現在の瞬間を受け入れることを学ぶべきです。
他の状態を求めるのではなく、今自分がいる状態をそのまま受け入れることです。そうでないと、内面的な葛藤や無意識の抵抗を生むことになります。平和でない自分を許しましょう。自分が平和でないことを完全に受け入れた瞬間、その平和でない状態は平和へと変わるのです。
エックハルト・トール
現実逃避
映画『生きる』では、主人公の渡辺勘治が余命6か月を宣告され、絶望と存在の危機に陥ります。彼は恐ろしい状態に閉じ込められます。一方で「本当に生きたい」と渇望しながら、他方では「ミイラ」のように無意識の状態で生きることに慣れすぎているのです。
長年、彼はただお金を稼ぐことだけに集中してきました。しかし今では、10年間貯めた貯金をどう使えばいいのかも分からず、死が迫る中でそのお金がいかに儚いものかを感じています。
渡辺はある小説家と出会います。二人はその夜を混沌とした時間で過ごします。パチンコ、やストリップショーや、クラブ的なところなど。
しかしその楽しみは、渡辺が帰り道で吐いてしまうことで終わります。その瞬間、彼は気づきます。享楽的な快楽では運命からも存在の空虚さからも逃れることはできないということを。いずれ死が彼を迎えに来るのです。
人生の意味
私たちは同じような行動をしたことがあるでしょうか?現実の厳しさから逃れるために、快楽に身を委ねたことは?
満たされない、憂鬱な、または迷子になったような気分のとき、私たちはしばしば外的な気晴らしを求めます。新しい目標や刺激的な活動、ゲームやコーヒーといった感覚的な楽しみに溺れることがよくあります。それらは一時的な満足感を与え、苦痛からの一瞬の解放をもたらします。
これらの行動パターンは、現代のスピード感のある物質主義的な社会ではあまりにも一般的です。社会的規範やマーケティングは、しばしば「消費こそが幸せへの道」といったライフスタイルを推奨します。その結果、私たちは「適応」し、成功や地位を投影するために特定の行動に溺れることを迫られ、深い目的を探ることを放棄してしまうのです。
皮肉なことに、現実逃避は私たちを幻想にさらすだけです。一瞬の満足が過ぎ去ると、私たちは結局、中身の空っぽな感覚に取り残されます。
なぜそのようになるのでしょうか?
私の調査や経験から、いくつかの原因が考えられます:
- 一時的な解放:享楽的な快楽は、ネガティブな感情から一時的に気をそらすだけで、その根本原因を解決するものではありません。例えば、試験に失敗した子供がゲームをすることで気分が良くなっても、勉強の問題が解決されるわけではありません。同様に、コーヒーを飲むことで一時的にエネルギーが増すかもしれませんが、疲労やストレスといった根本的な原因は解消されません。
- 回避:現実逃避は回避の一形態です。私たちは気晴らしを使って、困難な感情や状況に直面することを避けます。その結果、現実に向き合い、経験から学び、持続的な解決策を見つけることができなくなります。
- エネルギーの枯渇:過剰な快楽への依存は、私たちの身体的・精神的資源を枯渇させ、人生の課題に対処する能力を低下させます。
- 収穫逓減:収穫逓減の法則により、快楽を繰り返すことで、脳は報酬に対して鈍感になります。そのため、同じ満足感を得るためにより強い刺激を求めるようになります。最終的に、問題から逃れるために一時的な快楽に依存し、空虚感や不満感がさらに増すのです。
- 満たされない欲求:最終的には、現実逃避が失敗するのは、私たちの深い人間的欲求、すなわち自己、他者、そして周囲の世界とのつながりを求める欲望に応えられないからです。
快楽が充実した人生に等しいという誤解はよくあります。しかし、真の意味は快楽と挑戦のバランスから生まれます。
挑戦に立ち向かい、障害を乗り越え、自分自身を超えた何かに貢献することで、私たちは本当の目的を見出し、真に充実した人生を送ることができるのです。
人生の意味を知る方法
反省のための時間を作る
過去に何があり、未来に何があるかは些細なことだ。私たちの内部に何があるかに比べれば。
ラルフ・ワルド・エマーソン
人生の意味を見出すためには、まず内面に目を向けることから始まります。一見簡単に思えるこのプロセスですが、多くの人がこの段階でつまずきます。内省を試みる勇気を持つことさえ難しい人も少なくありません。
内省とは単に1日の出来事を振り返るだけではありません。現在の自分の状態を見つめ、これまで自分の人生を形作ってきた潜在的な前提を明らかにし、最終的に自分自身の深い部分とつながることを目指します。
最初のステップは、「今の自分はどこにいるのか?」と自問することです。以下のような人生のさまざまな側面を評価する時間を作りましょう:
- キャリア:自分の仕事に満足していますか?それは自分の価値観と一致していますか?それとも、ただ流されるようにこなしているだけですか?
- 人間関係:自分の人間関係は支え合うものでしょうか?それとも、対立や疎遠さが見受けられるのでしょうか?
- 自己成長:自分は積極的に学び、成長していますか?それとも停滞していますか?
このプロセスには、忍耐と、自分の中の不快な真実と向き合う意志が必要です。多くの場合、私たちの心は難しい現実から身を守るための「物語」を作り出します。例えば、経済的な成功が幸福に直結すると信じていたが、深く考えるうちにそれが虚しさを伴うものだと気づくこともあります。また、他人を喜ばせることで受け入れられると信じていたのに、それが実際には不満や自己喪失を引き起こしていることに気づく場合もあります。これらの「幻想」を解体し、自分の魂のささやきに耳を傾けるには、時間と正直さが必要です。
内省の初心者には、まずシンプルな問いから始めることをお勧めします。例えば:
- 自分が感謝しているものは何か?
- 自分が得意なことは何か?
- 自分の恐れは何か?
慣れてきたら、より深い存在論的な問いを考えてみましょう:
- 「私は何者なのか?」:単なる役割や肩書きを超えた、自分自身のアイデンティティについて考えます。自分の核となる信念、価値観、動機は何か?たとえば、仕事や所有物、人間関係などすべてを失ったとしても、自分に残るものは何でしょうか?
- 「私はどこから来たのか? 」:生命や宇宙の起源に対する精神的・哲学的な信念を考えます。
- 「私はどこへ行くのか?」:自分の目的や人生の方向性について考えます。何を成し遂げたいのか?どのような遺産を残したいのか?理想の未来の自分を描き、それに向かうために必要なステップを逆算してみましょう。
これらの問いへの答えは、多くの場合、潜在意識の中に隠れています。そのため、以下のような実践を試してみると良いでしょう:
- ジャーナリング:頭で考えすぎず、定期的に自分の考えや感情を書き出します。この過程で、繰り返し現れるテーマや習慣を探ってみましょう。
- マインドフルネス:瞑想やヨガ、太極拳などの活動が脳の構造を変え、自己認識、共感、幸福感を促進することが研究で示されています。心を静め、現在に集中するための時間を作りましょう。自然の中を静かに散歩したり、毎日数分間静かに座るだけでも、自分の内面に耳を傾ける時間を確保できます。
- アクティブ・イマジネーション:心理学者カール・ユングが提案した手法で、想像の中に現れるイメージや人物と対話し、潜在意識から洞察を得る方法です。
- 価値観の明確化エクササイズ:過去に自分が本当に満たされたと感じた瞬間を書き出し、その瞬間に表現されていた価値観を特定します。また、自分の追悼の辞を想像し、人々にどのように語られたいかを考えてみるのも良い方法です。
心は無意識に問題を愛する。なぜなら、それがある種のアイデンティティを与えてくれるからだ。
エックハルト・トール
自分の「波動」に合うものを考える
波動とは、すべてのものに存在する微細なエネルギーのことです。(Hadō is the subtle energy that exists in all things)
江本勝
ある活動、場所、または人に深い共鳴を感じ、「本当に生きている」と感じたことはありませんか?
この感覚、すなわち内なる共鳴こそが「波動」(Hadō)と呼ばれるもので、すべてのものに浸透する微細なエネルギーや振動を指します。
宇宙に存在するすべてのものは、それぞれ特定の周波数で振動するエネルギーでできています。私たちの思考や感情もまた、それぞれ独自の振動(波動)を持っています。この内なる共鳴という考え方は、「引き寄せの法則」の仕組みにも似ています。本来の自分と調和したとき、私たちは自然と、最も深い価値観や願望に合った体験や機会を引き寄せるのです。
自分の波動に耳を傾けることは、何が本当に自分に響き、何が純粋で深い幸福感をもたらすのかを見極めることを意味します。子どもの頃、何かに夢中になったときのような、無邪気で純粋な喜びを思い出してみてください。
ただし、波動を追求する際は、刹那的な快楽と区別することが重要です。一時的な快楽が意味を感じさせることもありますが、それを人生の中心に据えるべきではありません。
例えば、ソーシャルメディアを無限にスクロールすることや、ビデオゲームに没頭することは、一時的な気晴らしにはなるかもしれませんが、持続的な満足感を与えることはほとんどありません。
波動の本質は、自分を超えた深いつながりや目的意識にあります。それは、信じる活動に時間を捧げたり、自分の内面を表現する芸術を創作したり、他者を指導したりする中で現れることがあります。
波動を受け入れるとは、時間を忘れ、食事などの基本的な欲求さえ忘れてしまうような活動を見つけることです。たとえば、小説を書く、音楽を演奏する、あるいは自分が大切にしているテーマについて議論するなど、完全に没頭できるものです。それは多くの場合、すでに自分の目の前に存在しているのに気づいていない、または受け入れる準備ができていないだけかもしれません。
例:ある卓越したソフトウェアエンジニアは、その鋭い頭脳と問題解決能力で知られていました。しかし、彼女は次第に自分の小さな庭に惹かれるようになりました。彼女は何時間も植物の手入れをし、新しい技術を試しながら、深い平和と充実感を感じていました。そして気づいたのです。仕事は知的な刺激を与えてくれるものの、庭いじりほど情熱を感じさせるものではないことを。生命を育むことは、機械を扱うよりも彼女にとって深く共鳴するものでした。
人生の意味
自分の「波動」と調和することは決して簡単ではありません。大人になるにつれ、日常生活のプレッシャーや責任に追われ、自分の内なる波動から遠ざかってしまうことがよくあります。「稼ぐこと」や「もっと欲しい」という欲望のサイクルに巻き込まれ、かつて私たちが感じていた小さな喜びを忘れてしまうのです。
波動と調和するとは、人生の自然な「フロー」と同調することです。心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー状態」とは、ある活動に完全に没頭し、努力を感じずに行動し、自己意識を失う感覚のことを指します。この状態は、適度に挑戦しつつ、自分の強みを最大限に活かせる活動に取り組むときに訪れます。
フロー状態にあるとき、私たちは自分の核となる存在と調和し、自己の可能性を最大限に引き出すことができます。
弱点を克服したり、社会の期待に合わせようとするのではなく、自分の強みや本当に重要だと思うことに焦点を当てるべきです。その理由はシンプルです――本当に楽しめることに取り組むと、自然と成果が出やすくなるからです。
自分の核となる強みを見極め、そのエネルギーをそこに注ぐことで、自分の本来の波動と調和し、純粋な喜びの感覚を取り戻すことができます。
とはいえ、これを実現するのは容易ではありません。多くの場合、このプロセスを妨げるのは、「もしXが手に入れば幸せになれる」という条件付きの考え方です。例えば、「お金」「名声」「一時的な快楽」など、外的な要因に基づいて幸せを定義してしまいます。
この考え方は本質的に誤っています。なぜなら、限りあるものや変化し続けるものに、無限の幸せを求めてしまうからです。結果として、非本質的な選択をしてしまうのです。例えば、芸術に情熱を持つ人が、安定を求めて退屈なオフィスの仕事を選んでしまうことがあります。
私たちは、社会的な常識から逸脱してでも、自分の内なる声を認識し、それを尊重する必要があります。これについて、著者の茂木健一郎氏が指摘しているように、日本のアニメ業界の例が挙げられます。この業界では、多くの人が高額な報酬を得られないにもかかわらず、内なる波動に従い、創作への情熱を追求しています。
これは、自分の波動に耳を傾け、社会の規範を捨てることで、毎日の生活に持続的な喜びを見出す例と言えるでしょう。
音楽家は音楽を作り,画家は絵を描き,詩人は詩を作らなくては,彼らは本当に幸福であるとはいえない。人は本来的に成り得るものに成らなくてはならない。
アブラハム・マズロー
人生の意味
新しい経験にオープンになる
ただ座って人生を漫然と過ごすのではなく、何かの道を選びましょう。そして、その道が変わることもあるという事実を受け入れることです。それでいいのです。少なくとも、どこかに向かって進んでいるのです。もしその道が合っていれば素晴らしいことです。もし合っていなくても、それを変えればいいのです。少なくとも、道を歩んでいるのです。
マーシャル・ゴールドスミス
人生の意味を見出すことは受動的なプロセスではありません。それは行動し、未知に飛び込む勇気を持つことです。目的地が不明でも、旅に出ることが重要です。
鍵となるのは、さまざまな道を試してみて、その行き着く先を見極めることです。失敗や「時間の無駄」を恐れずに行動することが大切です。結局のところ、私たちがどれだけ生きられるかは誰にも分かりません。それなら、限られた時間を使って可能性を探るべきです。「時間を無駄にすること」に対する執着が強すぎるあまり、実際には行動を拒むことで時間を無駄にしてしまうのです。
多くの場合、自分の「道」への明確さは予期せぬところから現れます。ボランティア活動や趣味を通じて、日常生活の外側で新たな活動に取り組むことで、自分の性格の隠れた側面が明らかになり、価値観や情熱についての洞察を得られるかもしれません。
例えば、動物シェルターでボランティアをした人が、深い共感や動物福祉への情熱を発見し、それがきっかけで動物ケアのキャリアを追求したり、動物擁護を人生に取り入れることがあるかもしれません。
また、絵を描くことに挑戦した人が、創造的な表現への潜在的な欲求を見出し、それが自己発見や充実感への新しい道を切り開くこともあります。
大切なのは、新しい経験に心を開き、自分に本当に響くものを問い続けることです。
人生の意味
この実験のプロセスで重要なのは、「執着しない」ことです。これは目標を諦めたり、結果に関心を持たないという意味ではありません。むしろ、特定の結果やアイデンティティに固執しないことを指します。
執着してしまうと、変化に抵抗し、貴重な学びの機会を逃してしまいます。また、成功や失敗によって自分を定義してしまい、探求のプロセス自体を見失うリスクがあります。
以下は、非執着が実験にどのように適用されるかの例です:
- キャリア:特定のキャリアを歩み始めたが、後になってそれが自分に合っていないと気付いた場合、非執着とは方向転換を恐れず、新たな道を探ることです。それまでの経験を活かして次のステップを踏むことで、「時間を無駄にした」と感じることなく、新たな挑戦を受け入れることができます。
- 人間関係:時間とエネルギーを注いだ関係がうまくいかなくても、それを受け入れ、苦々しさや後悔を持たずに受け流すことです。その関係が果たすべき目的を果たしたと認識し、新たな繋がりの機会が訪れることを信じましょう。
- 趣味や興味:例えば、楽器を学び始めたが、思ったほど楽しめないと気付いた場合、非執着とはそれを手放し、新しいことに挑戦することです。その挑戦そのものが価値あるものであり、失敗や時間の無駄ではありません。
- 信念やアイデア:私たちは成長し学ぶ中で、信念や視点が自然に進化していきます。そのため、たとえ深く根付いた信念でも変えることを恐れず、常に真実や理解を追求することが重要です。
長い間、不幸な状況にとどまっている場合、どんな行動でも無行動よりはましです。それが間違いだったとしても、少なくとも何かを学べるので、それはもはや間違いではありません。一方で、停滞していると、何も学べません。
エックハルト・トール
指導を求める
私たちは一人で人生の意味を見つけるのではなく、他者と共に見つけるのです。
トマス・マートン
「道」を見つける旅は、一人で完結するものではありません。自己反省や試行錯誤は重要ですが、他者からの支援を求めることを恐れる必要はありません。これは、あなた自身の自主性を放棄したり、誰かの道を盲目的に追いかけることを意味するわけではありません。むしろ、似た道を歩んだことのある人や、あなたが興味を持つ分野で専門知識を持つ人の経験や学びを活かすという意味です。
誰に相談すれば良いか:
- コーチやメンター
- 教師やスピリチュアルリーダー
- 友人や家族
- その他の信頼できる人
指導者を選ぶ際に考慮すべきポイント:
- 専門性:あなたが求める分野での経験や知識を持っているか?
- 価値観:その人の価値観が自分の価値観と一致しているか?
- 客観性:偏りのないアドバイスや視点を提供してくれるか?
- 信頼:自分の考えや感情を正直に話せるか?また、その人があなたの利益を最優先に考えてくれるか?
最終的に、あなたの人生に関する決断を下すのは自分自身です。指導やアドバイスは、あなたの選択を補完するためのものであり、決して強制されるものではありません。受け取った助言をしっかり吟味し、自分にとって正しいと感じる選択をすることです。
また、試行錯誤と同様に、受け取ったアドバイスに対しても執着しない姿勢が重要です。ある人に有効だった方法が、必ずしも自分にとって最善とは限りません。異なる視点に心を開きつつも、最終的には自分の直感や判断を信じることです。
他人の経験を学ぶのは大切ですが、結局は自分の道を切り開くことが、真の意味での成長につながります。
意味 の ある 生き方
意味のある人生を送る方法
先延ばしにしない
そもそも我々が人生の意味を問うてはいけません。我々は人生に問われている立場であり,我々が人生の答えを出さなければならないのです。 どのような状況になろうとも人間にはひとつだけ自由が残されている。それはどう行動するかだ。
ヴィクトール・フランクル
人生の意味を探す旅は、受け身の姿勢で「答え」を待つのではなく、目の前にある人生の問いに積極的に応えることから始まります。私たちは一瞬一瞬、人生から問いを投げかけられており、その答えは私たちの生き方に現れます。
人生の意味に対する究極の答えが見つからないこともあるでしょう。しかし、絶えず問い続けること、その行為そのものが、答えに近づく道を切り開くのです。
暗い部屋で失くしたものを探す場面を想像してください。すぐに見つけられなくても、一歩ずつ動くたびに、次にどの方向へ進むべきかが少しずつ見えてきます。それと同じように、小さな一歩を積み重ねることで、人生の目的に近づくことができます。
そういえば、私はかつて次のような寓話を読んだことがあります。
ある晩、遊牧民の群れが夜を過ごすための支度をしていると、
突然あたりが厳かな光に包まれました。
聖なる方がともにおられるのを人々は感じました。
大きな期待を胸に、天の声が下るのを待ちました。
何かとても大切なお告げがあるのだろう、と思ったからです。
ついに、声が聞こえてきました。
「できるだけたくさんの小石を拾いなさい。
その小石を袋に入れ、一日旅をするがよい。
明日の夜になって、お前たちは喜び、また悲しむであろう」聖なる方がその場を去ると、人々は失望と怒りを口にしました。
大いなる宇宙の真理について啓示が下ることを期待していたからでした。
富と健康が授けられ、人生の目的が解き明かされると思ったのです。
ところが与えられたのは、小石を拾うというつまらない、
彼らにとってはわけのわからない作業だけでした。
しかし、人々はぶつぶつ言いながら、いくつかの小石を拾って袋に入れました。
聖なる方の神々しさが、まだあたりに残っていたからでした。人々は一日旅をし、夜になりました。
野営を張りながら小石のことを思いだし、袋から取り出してみました。
すると、どの小石もひとつ残らずダイアモンドになっていたではありませんか!
人々は小石がダイアモンドに変わったことを喜び、
もっと小石を拾ってこなかったことを悲しみました。
多くの人が陥りがちな間違いは、1つの明確で絶対的な答えを求めるあまり、小さな努力を軽視してしまうことです。重要なのは、遠くにある「ダイアモンド」にばかり目を向けるのではなく、毎日の行動や小さな一歩、「小石」を大切にすることです。
日本には「継続は力なり」という言葉があります。この言葉は、意味のある人生を追求する姿勢にぴったり当てはまります。
私は、それほど賢くはありません。ただ人より長く、ひとつのことと付き合ってきただけなのです。
アルベルト・アインシュタイン
人間の「道」は川の流れのようなものです。川は常に流れていますが、障害物にぶつかったり、進路を変えたりしながら進みます。同じように、私たちの「道」も直線的ではありません。困難や寄り道、不安に直面することもありますが、動き続ける限り、前進できるのです。
私たちの「道」は、心の中に植えられた種のようなものです。その種が芽を出し、成長するためには、意識的な行動を通じて育てる必要があります。内省、試行錯誤、他者からの助言を通じて「小石」を集め、それがやがて自分だけの「宝物」へと変わるのです。
人生の意味
先延ばしの原因の1つは、自分の本当の声を知らないことです。日々の忙しさに追われ、大きな目的を見失ってしまうことがあります。そんなときこそ、一歩引いて考える必要があります。パウロ・コエーリョの言葉を思い出してください。
ハートの声を聞きなさい。ハートはすべてを知っている。なぜなら、ハートはSoul of the World(ソース)から来たのだから。そしていつかまたソースに戻っていくのだから。
私たちのハート、直感は、深い知恵の泉につながる橋のようなものです。その声はしばしば非現実的だと無視されがちですが、耳を傾けることで、予想もしなかった目的意識を感じられるようになります。
また、行動を妨げるもう1つの要因は、相反する哲学に囚われることです。人生の目的があらかじめ決められていると信じる学者もいれば、意味は自分自身で作り出すものだと主張する人もいます。
私自身は、J.K.ローリングの言葉にあるように、「選択」の力を強く信じています。
自分が本当に何者かを示すのは、持っている能力ではなく、自分がどのような選択をするかということなんじゃよ。
私たちはどんな状況でも、自分の選択を通じて道を切り開く力を持っています。たとえあらかじめ決められた目的があったとしても、行動を起こさなければそれは意味を持ちません。
一方で、事前に定められた目的がないとしても、探求する行為そのものが人生に意味を与えます。
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
マタイ7:7
たとえ未来が見えなくても、信じて行動することが大切です。 (「見ないのに信じる人は、幸いである」).
飛べないなら走れ。走れないなら歩け。歩けないなら這え。だが、何をするにしても、前進を続けなければならない。
マーティン・ルーサー・キング
先延ばしを解消する最も効果的な方法の1つは、学び続けることです。福沢諭吉は次のように述べています。
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。
知識を広げ、異なる視点を探求し、周囲と積極的に関わることで、自分だけの道を見つけるための道具を手に入れることができます。哲学書を読んだり、深い対話を楽しんだり、新しいスキルを学んだりすることは、思考や自己発見の新たな道を開いてくれます。
最終的には、目の前の瞬間を全力で生きること、そして自分の行動を信じることが鍵です。大切なのはこのシンプルな真実を受け入れることです。「今、この瞬間がすべてである」。
昨日は歴史、明日は謎、しかし今日は贈り物。それが『プレゼント』と呼ばれる理由です。
マスター・ウーグウェイ|カンフー・パンダ
人生の意味
思い込みに疑問を持つ
私たちの人生は、世界や自分自身、そしてその中での役割についての根深い思い込みに基づいて動いています。これらの前提は、宗教的、文化的、あるいは個人的な信念を含むさまざまな要素から形成され、私たちの意思決定や行動に影響を与えています。
しかし、人生のある段階に達すると、これらの思い込みが必ずしも役に立たなくなる場合があります。たとえば、「成功とは物質的な富である」「幸せは他人からの評価に依存する」「特定の宗教の教義だけが唯一の真実である」といった硬直した前提は、私たちを制約し、視野を狭める原因となります。
特に有害なのは、人生を独占的な視点で捉え、普遍的な視点を欠いてしまうことです。ひとつの視点に固執し、他のすべてを拒絶すると、人類共通の価値観を見失い、自己を超えた何かとつながる能力を失ってしまいます。それは、豊かな人生を送るために不可欠な思いやりや共感を妨げることになります。
例として、「自分の宗教だけが唯一の正しい道である」と信じることは、他の宗教的伝統を軽視し、それらの知恵から学ぶ機会を奪います。また、宗教間の共通点を見出すことを妨げ、寛容さを失わせる要因となります。
岸見一郎氏の著書『幸せになる勇気』には、次のような見解が示されています:
私たちは、真実を求めて暗闇に伸びる長い棒の上を歩いているようなものだ。常識を疑い、自己に問いかけ続けながら、その棒の上を進む。しかし暗闇の中からこうした声が聞こえることもある。
『もうこれ以上進む必要はない。ここが真実だ』と。
その声を聞き、棒を進むのをやめ、途中で飛び降りる人がいる。
その人が真実を見つけるかどうかはわからない。見つけるかもしれないし、見つけないかもしれない。ただし途中で進むのをやめること、それが私にとっての宗教だ。
哲学とは、終わりなき道を進み続けることだ。神がいようといまいと、それは関係ない。
多くの宗教は「絶対的な真理」を信じることを勧めるため、批判的思考を阻む場合がありますが、哲学は不確実性を受け入れ、知識を探求し続けるものです。
結局のところ、特定の宗教に属していなくても「すべてを知っている」と主張し、疑問を持たなくなることも同様に危険です。ソクラテスや孔子が指摘したように、こうした態度は無知の証です。
私自身の経験を例に挙げたいと思います。キリスト教を信仰しながら人生の問いについて考え続けてきた中で、私は来世の存在を信じていますが、その詳細については確信がなく、輪廻転生のような他の解釈にも開かれています。
個人的な経験を通じて、この可能性を考えるようになりましたが、それが必ずしもキリスト教の教義に完全に一致するわけではありません。
一方で、来世を信じていない人々も深く尊敬しています。彼らは死後の世界に囚われることなく、この現実の中で具体的な違いを生み出そうと努力しており、その献身的な姿勢に心を打たれることがあります。
ここでのポイントは、宗教的信仰を促進したり否定したりすることではなく、説教や先入観を盲信するのではなく、問いかけと自己探求を大切にする柔軟で深いアプローチを推奨することです。
人生の意味
私たちは、一見無害に思えることについても、好奇心を持って評価する必要があります。たとえば、インターネットを見ていると、「人類全体」や「他者を助けること」に言及した心温まる名言に出会うことがあります。
こうした言葉は、多くの人々、そして私自身をも含め、気分を良くし、何か行動(例:いいね、シェア)を促す力があると感じます。それと同時に、「なぜそう感じるのだろう?」と考えずにはいられません。
時には、これらの言葉が非常に心に響くと感じることもあります。一方で、どこか陳腐であったり、時には操作的であるように感じることもあります。
私自身の調査によると、インスピレーションを与える言葉は、私たちが持つ「つながり」や「意味」を求める本能に訴えかける傾向があるようです。それらが心を動かす理由は次のようなものが挙げられます:
- 承認感:自分の考えや感情が他者の言葉として反映されることで、心が安らぎます。
- 希望とインスピレーション:これらの名言は、多くの場合、希望や回復力、前向きな変化の可能性を伝え、私たちを励まし、困難を乗り越える力を与えてくれます。
- より大きな目的へのつながり:他者への利他的な行動を促す言葉は、私たちを自分を超えた何かとつなげ、人生の目的を感じさせます。
しかし、これらの言葉の二面性にも注意が必要です。言葉は強力なモチベーションやインスピレーションの源となり得ますが、同時に感情を操作したり、特定の意図を推進するために利用される可能性もあります。そのため、これらの言葉には批判的な視点を持って接し、それを無条件の真実として受け入れるのではなく、自分自身を振り返り、成長するための道具として活用するべきです。
たとえば、「自己犠牲の重要性」を強調する言葉に出会った場合、それが実際にはどのような意味を持つのか、そしてそれが自分の価値観や経験とどのように一致するのかをまず問いかけてみるべきです。
ニーチェがこう述べています:
心の平穏や快楽を望むなら信じよ。真理に仕えたいならば問え。
信念と疑問の間にバランスを見つけることが重要です。その時々の個々の状況やニーズに応じて、私たちはこれら二つの状態の間を揺れ動くのが自然なことです。
確立された信念に身を委ねることで、安らぎや安定感を得られる時もあります。一方で、疑問を抱くことで生じる不安を受け入れることで、世界をより深く理解するチャンスも訪れます。
この問いかけ、探求、そして多様な視点を試すプロセスを通じて、他者への共感を育み、自身の知識を深めることができます。それこそが、意味ある人生を送るために欠かせない要素なのです。
人間は現実の状況に対する態度を選び取る自由を持っています。
ヴィクトール・フランクル
精神的な面を大切にする
精神的なニーズに応えることは「贅沢」ではありません。それは人間らしさを構成する基本的な要素です。アブラハム・マズローはこう述べています:
精神的な生活は人間の本質の一部であり、それがなければ人間の本質は完全ではありません。
かつて、ジークムント・フロイトは「快楽」が人間行動の主要な動機であると提唱しました。この理論は、神経科学、特に側坐核や腹側被蓋野といった脳の報酬系に関する研究によって裏付けられていますが、それだけでは人間の行動の全てを説明することはできません。
確かに、快楽の追求は人間のモチベーションの一部です。しかし、神経科学はまた、利他的な行動、創造性、社会的つながりといった活動も同じ報酬系を活性化することを示しています。私たちの目的意識は、一時的な感覚的経験だけではなく、より深く、より持続的な経験からも得られるのです。
残念ながら、フロイトの理論や急速に進む消費社会の影響により、多くの人が享楽的な快楽を真の意味と混同しています。特に若い世代では、「YOLO」(人生は一度きり)の考え方が広まり、浅はかな体験を追い求める傾向が強まっています。例えば、無意味なSNSのコンテンツをひたすらスクロールしたり、くだらない動画を見たり、ミームやアイドルに執着したり、否定的なコメントやネットでの中傷に没頭する、といった行動です。
少し想像してみてください。もし自分の子どもや親しい人が、そのような活動ばかりに時間を費やしているとしたら、満足できるでしょうか?
また、自分にあと6か月の命しか残されていないとしたら、同じように時間を使いたいと思うでしょうか?
人生はそのような一時的な気晴らしに費やすにはあまりにも貴重です!
心理学や多くの精神的伝統において、人生は「心」「意識」「思考」の3つの基本原則から成り立つという考え方があります。この観点から見ると、人生の本当の意味は、意識を探求し、宇宙への理解を深め、自分を超えた何かとつながることにあります。つまり、物質的な所有よりも、精神的な成長や自己の向上を優先するべきなのです。
物質的なものは本質的に無常です。一時的には安心感をもたらすかもしれませんが、それに執着することで自分自身や他者に苦しみをもたらす可能性があります。そのため、「地上に宝を積む」のではなく、「精神を養う」ことが重要です。
ここで明確にしておきたいのは、精神性(スピリチュアリティ)が必ずしも宗教と同義ではないということです。宗教は精神性を育むための多くの道のうちの一つに過ぎません。
「道」のセクションでも述べたように、宗教を固定的な教義ではなく、個人的な実践として捉えることができます。組織化された信仰に従うのは素晴らしいことですが(私はキリスト教徒でありながら、仏教や人文主義にも興味を持っています)、特定の制度に属さずとも精神性を育むことは十分に可能です。
ダライ・ラマはこう述べています:
私の信仰はとても簡潔なものだ。私の信仰は思いやりである。
精神性と人間性の本質とは、思いやりを育み、美徳を実践することです。それこそが真の人間らしさを生きるという意味です。
茂木健一郎氏や江本勝氏の著書では、日本固有の宗教である神道について語られています。それによれば、神道の焦点は「全てのものの中に神を見る」ことにあります。この教えは、自然との調和を大切にし、謙虚さを実践し、家の隣の木や机のような無生物に対しても敬意を示すことを奨励しています。
あらゆるものの中に「神」を認識することで、私たちは思いやり、社会的調和、そして環境に対する責任感を育むことができます。
最終的に、人生の意味を追求することは、心を育むことに帰着します。心には現実を形作る驚くべき力があります。オー・ヘンリーの「最後の一葉」に示されているように、強い心は私たちの知覚を変え、新たな目的意識を与えることができます。一方、弱い心や閉ざされた心は、肉体的には生きていても空虚感や無意味さを感じさせるでしょう。
精神を大切にし、思いやりを実践し、自分を超えた何かとつながること。それが真に豊かな人生を送るために必要なことです。
共同体感識を育む
人は森のようなものだ。一人ひとりが独立しているようでありながら、成長のために他者とのつながりや依存が必要である。(A man is like a forest; individual and yet connected and dependent on others for growth)
茂木 健一郎
かつて精神科医のヴィクトール・フランクル博士が学生から「人生の意味とは何か」と問われたとき、彼は紙に何かを書き、その答えを学生たちに当てさせました。すると、ある学生がこう言いました。
「先生の人生の意味は、他の人が自分の人生の意味を見つけられるよう助けることです。」
「その通り!」と、フランクル博士は答えたそうです。
心理学者アルフレッド・アドラーも提唱しているように、「共同体感覚」、すなわちより大きな全体への帰属意識やつながりを感じることは、人生における重要な意味を成す要素です。
私たちは皆、心の奥底で、公平さや平和、調和を求めています。そのため、不正義や苦しみを目の当たりにすると、神の存在や、神聖な正義、カルマの概念について疑問を抱くことがあります。
この「公正で調和の取れた世界」を望む本能的な欲求こそが、人間体験における共同体意識の重要性を物語っています。
愛とつながりは、人間の幸福に欠かせない要素です。他者と経験を分かち合い、支え合い、愛を受け取ることで、人生が豊かになり、自分の存在に意味を見いだすことができます。
家族の絆、親しい友情、恋愛関係など、これらのつながりはすべて、親密さと帰属意識の土台を提供してくれるものであり、それが人生の困難を乗り越える原動力となります。
個人的には、私が精神的な師匠や、自分の価値観や人間発展のビジョンを共有する友人たちと築いてきた関係の中に、大きな意味を見つけています。これらのつながりがあったからこそ、伝統的なキャリアの道をただ追うのではなく、自分の深い価値観に基づいた、より自由な人生の道を歩むことができました。
もし、あなたが今、人生の道に迷っているならば、快適な殻の中に閉じこもらず、自分の「部族」、つまり同じ波動(波動)を持ち、価値観や夢を共有する人たちを見つけに行くことをお勧めします。「虚栄心を追い求める」のではなく、最も大切な人々と質の高い時間を過ごすことに時間を使いましょう!
自分自身への道は外の世界へと続いています。すなわち人間は自分自身を他者のうちに見出すのです。
ヴィクトール・フランクル
共同体感覚を育むために重要なのは、「勝つこと」に執着しないという姿勢です。この点を文化的な例を用いて説明したいと思います。
私が知る限り、日本にはスポーツマンシップ、謙虚さ、そして対戦相手への敬意を重んじる文化があります。試合に勝利した後でも、選手たちは相手への敬意を示し、過剰な感情の表現を控えることが求められます。過度な勝利の喜びは社会的な批判を招いたり、場合によっては公式のペナルティを受けることさえあります。
この謙虚さを重視する姿勢は、課題を伴うものの、「勝利がすべてではない」という考え方を根底に持ち、調和の取れた持続可能なスポーツ環境を築くことに貢献しています。
この原則は、人生にも応用できます。すなわち、謙虚さ、節度、持続可能な成長を優先し、個人的な栄光や物質的な富の一時的な満足を追い求めるのではなく、より大きな善への貢献を重視することです。
人生とは、理解し合い、共存し、より大きな善に貢献することであり、「一番になること」や「頂点に立つこと」ではありません。人間は単なる自然選択に支配される生物ではなく、自己中心的な動機や従来の正義を超越する力を持っています。
私たちは肩を寄せ合って生きています。だから、この世における私たちの第一の目的は他者の役に立つことです。もしあなたが彼らを助けられなくても、少なくとも他者を傷つけてはいけません。
ダライ・ラマ
父が言っていたように、人生の意味を追求する過程で、最終的には「自己中心的な自己」という概念を手放さなければなりません。他者を助けることで、自分自身の道も照らされるのです。これは美しいパラドックスです。与えれば与えるほど、受け取るものも増えていくのです。
愛は結局、人間の実存が高く昇り得る最後のもののです。
ヴィクトール・フランクル
人生の意味
些細なことを大切にする
人生の些細な細部に気づけば、何ひとつ繰り返されることはない。すべての瞬間が特別な機会だ。(When you take notice of the small details of life, nothing is repeated. Every opportunity is special)
茂木 健一郎
脳科学者であり作家の茂木健一郎氏は、自身の著書で以下のエピソードを語っています。
1990年代半ば、私はケンブリッジ大学の生理学研究所でポスドク研究をしていました。その時、著名な教授の家に下宿していたのですが、滞在する部屋を案内された際、教授は一つの椅子を指して『これは特別な意味を持つ椅子なんだ。私が子どもの頃、父が私のために作ってくれたものなんだよ』と話してくれました。
その椅子自体は見た目に特別なものではありませんでした。むしろ少し粗削りで、デザインも洗練されていない部分があり、ぎこちない作りでした。市場で売られていたら大した値段にはならなかったでしょう。しかし、教授の目に浮かぶ微かな光を見ると、その椅子が彼にとって非常に特別な意味を持っていることが分かりました。それだけで十分なのです。彼の心の中で、この椅子は他には代えがたい存在だったのです。これこそが『センチメンタルバリュー』の本質と言えるでしょう。
この話は些細な例かもしれませんが、とても深い示唆を与えてくれます。**「生きがい」**とは、この教授の椅子のように、自分自身にとって特別な価値を持つ人生の喜びを見つけ、定義し、味わうことです。他人がその価値を理解しなくても、それで良いのです。
(I remember a special chair I encountered in the United Kingdom. For a couple of years in the middle of the 1990s, I was doing postdoctoral research in the Physiological Laboratory at the University of Cambridge. I was lodging in a house owned by an eminent professor. When he showed me the room I would be staying in, he pointed to a chair and explained that it had sentimental value for him: his father had made it especially for him when he was a small child.
There was nothing extraordinary about the chair. To be honest, it was rather clumsily made. The design was not refined, and there were ragged, irregular features here and there. If the chair was for sale in a market, it wouldn’t have fetched much money. Having said that, I could also see, by the glimmer in the professor’s eyes, that the chair had a very special meaning for him. And that was all that mattered. It had a unique place in the professor’s heart, just because his father had made it for him. That is what sentimental values are all about.
This is just a small example, but it is a powerful one. Ikigai is like the professor’s chair. It is about discovering, defining and appreciating those of life’s pleasures that have meaning FOR YOU. It is OK if no one else sees that particular value)
人生の意味を追求する中で重要な教訓の一つは、一見些細に見えるものの価値を見出すことです。それは壮大な業績や外部からの承認ではなく、自分にとって特別な意義を持つ小さな瞬間や物事の中にある喜びや価値を見つけることなのです。
私の父との哲学的な会話の中で、このことについて深く考えさせられた経験があります。父は経済的困難の時代に育ち、1975年の国の再統一後、極端な貧困や自由の制約がある中、ほとんどの人々は日々の生計を立てることで精一杯でした。
そんな中でも、日々を楽しむための創意工夫を見つける人々もいました。
父が教えてくれたあるエピソードの中に、囚人が「蟻の世話」をするという奇妙な方法で心の安らぎや目的を見つけた話があります。具体的には、彼は蟻の行動を観察し、餌を与え、蟻のために道を彫っていたそうです。他の人が「気が狂っている」と思っても、彼にとっては全く問題ではありませんでした。
この話を振り返るたびに、どんなに厳しい状況でも、人生の意味は些細なことの中にも見出せるのだと実感させられます。
人生の喜びとは、キャリアの成功や名声だけではありません。生きているという事実そのもの、家族の温もり、伴侶の抱擁、長い一日の終わりに子どもたちと再会する喜びなど、これらが人生の本当の宝物なのです。
人生の意味
また、日々のこだわりを持つことで、どんなに単調な仕事も満足感を伴うものに変えることができます。どんなに些細な作業であっても、細部に注意を払い、完璧を目指す姿勢が大切です。
ある段階で、傍観者は『やりすぎでは?』と思うかもしれません。しかしその瞬間、奇跡が起こります。追求している質にさらなる深みがあることを発見し、ブレイクスルーやまったく新しいものが生まれるのです。
(At a certain point, a casual observer might feel that these pursuers of perfection are going over the top, and that the effort is too much. Just at that moment, something miraculous happens. You realize that there is actually further depth to the quality you are pursuing. There is a breakthrough, or the production of something completely different)
茂木 健一郎
さらに、**一期一会(いちごいちえ)**の哲学も重要です。すべての瞬間は一度限りのものであり、その一瞬一瞬を完全に味わうべきだという教えです。朝のコーヒーの準備、同僚との会話、自然の中での散歩――どれもが特別な瞬間であり、心を込めて向き合う価値があります。
茂木氏の提案するこれらの哲学を実践したい方には、スローでミニマルな生活を取り入れることをお勧めします。たとえば、早起き、家族との挨拶、運動などの日々の儀式を取り入れることで、それは単なる日課ではなく、脳の報酬系を活性化し、ホルモンの循環を改善する象徴的な行動となり、全体的な幸福感を高めるポジティブなフィードバックループを作り出します。
同時に、命そのものの贈り物、すなわち「私たちは生きている」という事実や「大切な人たちがまだそばにいる」ことへの感謝を忘れずにいましょう。人間として生まれたこと自体が恩恵であり、この恩恵を無駄にせず、無意味な追求に費やさないことが重要です。
人生の意味とは、ただ生きるということである。とても簡単で、とても明瞭で、とてもシンプルなことであるが、誰しもその人であるということ以上のことを成し遂げなければならないかのような錯覚に急き立てられているのだ。
アラン・ワッツ
真の喜びとは、大きな野望を追い求めることではなく、今この瞬間を生き、ありふれた美しさを味わうことにあるのです。答えはすでに私たちの中にあります。ただ、立ち止まり、内省し、この「存在の美しさ」を感じるだけでいいのです。
幸福というものは奇妙だ。それは、求めていないときにやってくる。幸福になろうと努力していないとき、突然、不思議と幸福はそこに現れる。純粋さと、存在の美しさから生まれる幸福。
ジッドゥ・クリシュナムルティ
人生の無常を受け入れる
人生とは、しがみつくことと手放すことのバランスです。
ルーミー
人生の意味は、固定された目的地ではなく、動的で常に進化する経験だということを理解する必要があります。ある時期に私たちにとって意味を持ったものが、別の時期には同じように感じられないこともあります。
人生は、常に変化し続けるプロセスです。成長し、新しいことを学び、さまざまな人生の段階や挑戦を経験する中で、私たちの視点、価値観、優先事項は自然と変わっていきます。そしてそれは、物事に対する重み付けにも影響を与えます。
たとえば、キャリアをスタートしたばかりの若者を考えてみましょう。この段階では、彼にとっての主な関心事は、プロとして成功し、経済的な安定を築くことかもしれません。これらの目標が、彼に目的意識や方向性を与えてくれます。しかし、年齢を重ね、結婚し、子どもが生まれると、今度は家族が優先されるようになります。キャリアから得られる意味は次第に重要性を失い、妻や子どもとの絆がより大きな意味を持つようになるのです。
また、大切な人の喪失や病気、予期しない出来事など、人生の大きな変化も、私たちの意味の感じ方に大きな影響を与えます。たとえば、愛する人を失う経験は、私たちに優先順位を見直させ、新しい形で人生と向き合うきっかけを与えてくれるでしょう。かつては重要だと思っていたことが今では些細に思えたり、人間関係や自己成長といった別の側面がより大切に感じられるようになったりします。
このような絶え間ない変化は、不安を感じさせるかもしれません。多くの場合、私たちは過去の経験にしがみつき、変化の流れに逆らおうとしてしまいます。そして、かつて人生に目的を与えてくれたものが、もはや心に響かなくなったとき、迷いや戸惑いを覚えるものです。
しかし、この流動性を受け入れることが重要です。川がその流れに応じて地形に適応するように、私たちも人生の変化に合わせて形を変えていかなければなりません。
どんなに困難であっても、人生は続いていきます。悲しみや失望、不確実性に直面しても、前進する力を見つける必要があります。
過去の経験を、現在の自分や世界に対する理解に統合することが必要です。これまで学んだ教訓、大切にしてきた人間関係、そして私たちを形作ってきた瞬間のすべてが、人生という豊かなタペストリーを織り成しています。それらは私たちの現在の価値観を形作り、新たな意味の源へと私たちを導いてくれます。
人生の意味
毎日死を考える
人間は軽薄なもんですな。生命がどんなに美しものかということを死ぬ直前に初めて知る。
黒澤明
「もしあと6カ月の命だとしたら、あなたは何をしますか?」
これは映画『生きる』の主人公、渡辺勘治が自らに問いかける質問です。彼に迫る死の現実が彼を「目覚め」させ、些細なことへの執着を捨て、残された一瞬一瞬の大切さを受け入れるきっかけとなります。その瞬間、彼は「ミイラ」のように生きるのをやめ、「人間」として本当の意味で生き始めるのです。
これは人生の中でよく目にする現象です。作家パウロ・コエーリョも、同じような覚醒体験を語っています。彼は「静かな心臓発作」を起こし、「余命30日」と告げられたことがありました。幸いにも彼は生還しましたが、この死に近い経験は彼に深い影響を与えました。それ以来、彼はこう自分に繰り返し言い聞かせるようになったといいます。「今やるんだ、今やるんだ、今やるんだ」と。
死は私の親友だ。彼女はいつも私のそばに座っている。私が話している間でさえ、彼女は『私はあなたに口づけするわよ』と言い、私は『今じゃない、お願いだから』と答える。でも彼女はこう言うんだ。『わかった、今じゃない。でも注意してね。できるだけこの瞬間を大切にして。私は必ずあなたを連れて行くから』と。そして私は感謝するんだ。『人生で最も重要なアドバイスをありがとう。瞬間を完全に生きることだ』って。
パウロ・コエーリョ
死は誰もが免れない現実であり、いつか私たち全員に訪れます。多くの人が死について考えることを避けたがりますが、実際には死は予期せぬタイミングで訪れることがあります。
私たちが生きているこの世界では、COVID-19のようなパンデミックや津波、地震といった自然災害、さらには戦争の脅威など、突発的な出来事が私たちの人生を大きく変える可能性があります。そのため、私たちは常に死について考え、命の儚さと尊さを認識する必要があります。
すべきことを今日全力でするのです。明日死がやって来ない保証などどこにもないのですから。
釈迦
死について考えることは、暴力を含むさまざまな問題に対する良い解毒剤でもあります。自殺のような自己破壊的な行為も例外ではありません。私の意見では、自殺や自己否定は真の解決策ではなく、責任を回避する一種の行為であり、人生という贈り物を軽視する行為でもあります。
人生の挑戦に立ち向かうには、逃避するよりもはるかに大きな勇気が必要です。
絶望に苦しむ人々に、このような考えに至ることは簡単ではないことを理解しています。(実際、私の叔父も自ら命を絶ちました)。だからこそ、個人の意志だけでなく、周囲の人々を支える責任を強調する必要があると感じています。
私たちは責任を押し付け合うのをやめ、まだ苦しみの兆候が見られなくても、積極的に周囲の人々に手を差し伸べるべきです。
個人の視点では、命の価値とその儚さを本当に理解するなら、自ら命を絶つことはもちろん、正当な理由なく他者や生き物に危害を加えることもできないはずです。
家族や友人のことを考えてみましょう。
これまでの成果を含め、自分がここまでたどり着いた理由を考えてみましょう。
自分の欠点ではなく、可能性について考えてみましょう。
他人の評価ではなく、自分の内なる価値観について考えてみましょう。
もし家族の一員が自殺したら、自分がその葬儀に出席することになったらどう感じるかを想像してみましょう。
ただ考えるだけで、命がどれほど価値あるものか、そしてなぜ非暴力を推進する必要があるのかがわかるはずです。そのときこそ、愛と思いやりを育むことを学ぶでしょう。
生まれてきたこと自体が祝福であり、この贈り物を心から大切にするべきです!
朝起きたときに、生きていること、呼吸すること、考えること、楽しむこと、愛することがどれほど貴重な特権であるかを考えよう。
マルクス・アウレリウス
人生の意味
手放して心を開く
我々のように小さな生き物にとって、この広大さは愛によってのみ耐えることができる。
カール・セーガン
人生の不確実性に直面するとき、私たちに安らぎと目的を与えてくれるのは、他者やより大きな存在とのつながり、そして「愛」です。
愛することは、執着を手放すことから始まります。恨みや怒り、過去の傷にしがみついていると、それは私たちを重く縛りつけ、現在を受け入れることや他者とつながることを妨げます。精神科医ヴィクトール・フランクルはこう語っています:
私は、誰かが私にしてくれた善行を決して忘れず、誰かが私に対して行った悪行に執着しません。
愛は、与える者と受け取る者の両方に力を与える積極的なエネルギーです。それは、互いに他者の最良の部分を見出し、その可能性を認め、成長と開花を助ける力を持っています。
思いやりを育み、心を開くための実践的な方法の一つは、他人を家族の一員とみなすことです。特に判断したり嫌ったりしがちな相手に対して、その人を母親や父親、兄弟姉妹、子どもと見なしてみてはどうでしょうか?
このような視点の転換は、現実の認識を劇的に変え、共感を育むはずです。
もし誰かに害を与えたい衝動が湧いたとき、その人を自分の母親、姉妹、娘だと思ってみてください。それだけで、衝動を抑える理由が見つかるはずです。
私たちの言葉が他者にどのような影響を与えるかを、自分の家族に向けられた言葉として想像することで、無条件に優しさを示す力が高まります。
次に『この人とは何も共通点がない』と言いたくなったら、思い出してください。あなたとその人には多くの共通点があります。数年後、あなたもその人も腐敗した遺体になり、やがて塵となり、何も残らないのです。この事実を思い起こすことは、誇りを捨てさせる謙虚な気づきであり、すべての生き物の間に完全な平等があることを教えてくれます。
エックハルト・トール
子供のように好奇心を持つ
生きがいは私たちをみんな“ピーター・パン”にしてくれる。そしてそれは必ずしも悪いことではない。みんなで12歳に戻ろう!
(Ikigai makes a Peter Pan of all of us. And that is not necessarily a bad thing. Let us all be twelve years old!)
茂木 健一郎
最近、65歳を超えた私の父は、新しい冒険に挑戦することを決意しました。それは英語を学ぶことです。正式な授業を受けることなく、父はオンラインのリソースを使って発音や文法を熱心に練習しています。
父がこの新しい興味について語る様子を聞いていると、まるで子供のような好奇心に満ちた発見の喜びが伝わってきました。例えば、「リエゾン」の概念を学んだときの興奮を話してくれました。
「学び続け、探求し続け、練習を続ければ、いつかきっと流暢に話せるようになる。その“いつか”が80歳や90歳になってからでもいいんだ」と父は言います。
さらに、「急がば回れ」だと話し、目標の達成には執着せず、毎日の学びや練習そのものを楽しんでいるようです。たとえ夢が現実になる前に亡くなったとしても、挑戦したこと自体に価値があると信じています。
父の話を聞きながら、人生の意味を見つける上で好奇心の重要性を改めて感じました。
子供たちは純粋な「なぜ?」という疑問の心で世界を見つめ、新しいことを探求しようとします。この生まれながらの探求心が、彼らを成長させ、学ばせ、世界での自分の立ち位置を理解する原動力となります。
しかし、成長するにつれ、私たちはこの探求心を失い、日常に甘んじてしまうことが多いです。そのため、子供のような視点を取り戻すことが、情熱を再燃させ、人生を豊かにする鍵となります。
新しい趣味に挑戦する、新しいスキルを学ぶ、新しい場所を訪れる、あるいは異なる背景を持つ人々との会話を楽しむことなど、さまざまな経験を受け入れる「ノマド精神」を持つことが大切です。
私自身もまた、霊性や存在の本質についての疑問に答えを求めながら彷徨ってきた一人です。そして、長年の内省を経て、少なくとも私にとっての人生の意味は、生涯学び続けることに密接に結びついていると信じるようになりました。
すべてに対する明確な答えを得ることは重要ではありません。大切なのは、探求し続け、学び続け、成長し続けることです。新しい経験や知識の一つ一つが、私の自己理解と世界観に新たな層を加えてくれます。
人生はチョコレートの箱みたいなもの。何が入っているかなんてわからない。
フォレスト・ガンプ
人生の意味
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自分を他人と比べない
幸せな人生を送るために必要なものはほんのわずかだ。それはすべて、自分自身の中にあり、自分の考え方次第だ。
マルクス・アウレリウス
岸見一郎の著書『嫌われる勇気』には、哲人と若者のこんな会話が出てきます:
若者:「友人のYのことをお話しします。彼はいつも明るい性格で、誰とでも気軽に話せる人です。彼はまるで向日葵のようで、みんなから愛され、彼がいると周囲は笑顔になります。それに比べて、僕は社会的に不器用で、どこか歪んでいる人間です。」
哲人:「では、Yのように明るい人になりたいということですね。なぜ、Yのようになりたいと思うのでしょう?」
若者:「先ほど言ったように、彼に憧れているし、彼のようになればもっと幸せになれる気がするからです。」
哲人:「つまり、あなたは今、幸せではないということですね。」
若者:「それは…」
哲人:「今のあなたは、自分を本当に愛することができていない。それを埋めようとして、自分ではない誰かに生まれ変わろうとしている。Yのようになりたいと願い、今の自分を捨てようとしているのです。」
「でも、どれだけ願ってもYになることはできません。あなたはYではありません。そして、それでいいのです。あなたはあなたであることに価値があるのです。」
「あなたがYや他の誰かになりたいと思うのは、今の自分の持つものばかりに目を向けているからです。その代わりに、今の自分の能力をどう活かしていくかに目を向けるべきです。」
(YOUTH: Let me tell you about another friend of mine, a man named Y. He’s the kind of person who has always had a bright personality and talks easily to anyone. He’s like a sunflower – everyone loves him, and people smile whenever he’s around. In contrast, I am someone who has never had an easy time socially, and who’s kind of warped in various ways.
PHILOSOPHER: So, you’d like to be a more upbeat person, like Y? Why do you think you want to be like Y?
YOUTH: As I said earlier, it’s just that I admire him and I think I’d be happier if I were like him.
PHILOSOPHER: You think you’d be happier if you were like him. Which means that you are not happy now, right?
YOUTH: What!
PHILOSOPHER: Right now, you are unable to feel really happy. This is because you have not learned to love yourself. And to try to love yourself, you are wishing to be reborn as a different person. You’re hoping to become like Y, and throw away who you are now.
Look, no matter how much you want to be Y, you cannot be reborn as him. You are not Y. It’s okay for you to be you.
You want to be Y or someone else because you are utterly focused on what you were born with. Instead, you’ve got to focus on what you can make of your equipment)
現代社会では、SNSや華やかなイメージであふれる文化が、「他人との比較」という行動を助長しています。しかし、この比較を続ける限り、私たちは喜びを失い、自分の価値を低く見積もり、人生の意味を深く味わうことを妨げられてしまいます。
他人と比べることに執着すると、外部からの評価に依存するようになり、自分らしく自由に生きる力を失ってしまいます。この「承認欲求」の追求は、私たちを見えない「牢獄」に閉じ込め、自分の道を追求する妨げとなるのです。
本当の自由は、外部からの評価にとらわれず、自分の内なる指針を見つけることにあります。自分の欠点も含めて、ありのままの自分を受け入れることが必要です。
もし生まれ変わることができるなら、あなたは本当に誰か他の人になりたいですか?
改善したい部分はあるかもしれませんが、あなたの持つ独自の特性や経験、視点こそが、今のあなたを作り上げているのです。
誰も完璧ではありませんが、経験を通じて成長することができます。他人と比較するのをやめ、自分だけの道を進むことに安心感を見出すべきです。
かつて、人生の意味についてのインタビューで、サドグルがこんな言葉を残しました:
「もしあなたが10世紀前に生きていたら、車に乗ることはなく、歩いていても平気だったでしょう。」
では、なぜ現代の私たちは車のような便利さに執着してしまうのでしょうか?
サドグルによれば、それは私たちが「ライフスタイル」を「人生」そのものと勘違いしているからだと言います。「ライフスタイル」は時代や状況に左右される一時的なものであり、「人生」そのものが重要なのです。
ライフスタイルと人生を混同すると、必ず苦しみが生まれます。なぜなら、誰かがいつも「より良い」ライフスタイルを持っているように見えるからです。
一方で、他人との比較を捨て、人生の核心(つながり、成長、貢献)に目を向けることで、新しい章を開くことができます。
他人の評価に左右されず、自分の経験に喜びを見出し、自立を目指すべきです。他者に認められなくても、自分の情熱や価値観を真摯に追求する「観客のいない舞台で踊る勇気」を持つのです。
「嫌われる勇気」は、人生の意味を見出すために必要な重要な要素です。他人の期待に縛られることをやめ、自分自身の光を輝かせましょう。
日本文化には、「桜梅桃李(おうばいとうり)」という言葉があります。これら4つの植物はすべて春に花を咲かせますが、それぞれ異なる姿を持ち、それぞれのタイミングで独自の方法で花を咲かせます。梅は桜よりも優れているわけではなく、どちらもそれぞれの美しさを持っています。
同じように、他人と自分を比較することは無意味です。むしろ、自分の旅路を受け入れ、自分の強みや才能、価値観を育むことに全力を尽くしましょう。
人生最大の幸福とは、私たちがありのままの自分を愛されているという確信、あるいは、自分の欠点にもかかわらず愛されているという信念だ。
ヴィクトル・ユーゴー
苦しみに意味を見出すこと
人生の意味を探求する中で、避けて通れないのが「苦しみ」の現実です。苦しみは人間の経験に不可欠な要素であり、個人の背景や信念、状況にかかわらず、誰もが体験するものです。
私たちは苦しみを避けたり否定したりしたくなるかもしれませんが、それに向き合うことで初めて、人生の目的についてより深く理解することができるのです。
苦しみを理解する上で難しいのは、その性質が非常に多面的であるという点です。人それぞれの精神的・哲学的な観点によって、その解釈が大きく異なります。ある人は苦しみを「カルマ(業)」によるものと捉え、過去の行いを正そうと努めるかもしれません。また、ある人はそれを神の意志と考え、祈りや信仰によって癒しを求めるでしょう。一方で、単なる偶然とみなす人もいます。これらの視点の違いは、苦しみの原因だけでなく、それへの対処法にも影響を与えるのです。
私自身は、苦しみの「理由」について深く掘り下げることにあまり関心はありません。なぜなら、それは過去に関わる問題だからです。むしろ、苦しみを次のように捉えることを選んでいます。
- 一部の苦しみは、過去の行い(現世または過去世)に起因しているものかもしれません。
- 一部は、意志を強化し、大切な教訓を教えるためのものかもしれません。
- そして、一部は、他者の苦しみに共感する力を育むためのものかもしれません。
いずれにせよ、嘆いたり逃げたりするのではなく、むしろ「剣を手に取り」「戦う」覚悟で苦しみに立ち向かうべきだと考えています。つまり、積極的に行動するという姿勢が大切なのです。
涙を恥じることはありません。その涙は苦しむ勇気を持っていることの証なのですから。
ヴィクトール・フランクル
苦しみを他人のものと比較し、自分が「一番不幸だ」と感じる傾向は、人間が陥りがちな罠です。しかし、このような比較は自己憐憫や恨みの感情を生み出し、日々の経験の中で意味を見いだす力を妨げてしまいます。
真実は、誰もがそれぞれの「荷物」を背負っているということです。他人と比較するのではなく、自分自身の課題に向き合い、解決を図ることが大切です。他人の痛みを軽視することなく、自分の痛みを認める勇気を持ちましょう。
視点を変え、人生の試練を受け入れることで、私たちは現在の自分よりも「より良い自分」へと成長することができます。困難は意志を鍛え、道徳的な基盤を強化するだけでなく、他者への共感の重要性を教えてくれます。そして、人間関係、価値観、自己成長、またはより大きな目標への貢献といった、私たちにとって本当に重要なものを理解する助けにもなるのです。
例えば、重い障がいを持つ子どもの世話に一生を捧げる母親を考えてみてください。彼女の人生は困難と犠牲に満ちていますが、その行為に込められた愛と目的は、彼女に深い意味を与えています。この苦しみは消えるわけではありませんが、彼女にとっては「神聖」なものへと変容するのです。
「無我」の境地を受け入れることができれば、苦しみは絶望の源ではなく、成長、強靭さ、そして知恵の触媒へと変わります。
苦しみは、それが意味をーたとえばある犠牲をはらうことの意味をー見つけた瞬間に、苦しみではなくなってしまう。
ヴィクトール・フランクル
人生の意味に関する名言
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人生において重要なのは、意味を付与するのではなく意味を発見することです。
ヴィクトール・フランクル
全ての存在は、地球上で果たすべき目的を持っている。
サアディー
人生全般の意味に絶望することはできても、その個別の形に絶望することはできない。存在そのものには絶望できても、歴史には絶望できない。歴史において、個人にはすべてを成し遂げる力があるのだから。
アルベール・カミュ
生きる意味とは、自分に与えられた才能を見つけること。生きる目的とは、その才能を他人に分け与えること。
パブロ・ピカソ
われわれの主な関心事は、楽しみを手に入れたり苦痛を避けたりすることではなく、むしろ自分の人生に意味を認めることにある。
ヴィクトール・フランクル
残っている仕事は重要なことが一つだけだ。 それは、内的な自己の完成だけである。 自己の完成のために、まさに神から贈られた時間を手にしているのである。
曽野綾子
人生において何が正しいかなんて誰にもわからないのだから、自分の思うとおりに進んで、その結果を他人の責任にしないことが大切ではないかと思う。
曽野綾子
光を拡散するには二つの方法がある。ロウソクになるか、ロウソクの光を反射する鏡になるかだ。
エディス・ウォートン
真理に向かって努力しなかった人は、生きる目的を見失っている。
釈迦
苦しいときは、観察しましょう。人生はあなたに何かを教えようとしています。
釈迦
金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。
伝道の書 5:10
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
マタイ 5:14-15
忘れ去られた者もある。 彼らは、存在しなかったかのように消え去り、 あたかも生まれ出なかったかのようである。 彼らの子孫も同様であった。
しかし慈悲深い先祖たちの 正しい行いは忘れ去られることはなかった。
彼らの子らのもとに、 良き遺産、孫たちが残る。
シラ 44:9-11
人生の意味についての本
人生の意味についての映画
人生の意味についての読み物
実存的不安|自分自身の道を見つける。https://jonathanmpham.com/ja/ジャーナリング/自分自身の道を見つける/
現代社会における『人生の目的』探しが難しい理由。https://jonathanmpham.com/ja/ジャーナリング/現代社会における人生の目的探しが難しい理由/
ニック・ヴイチチ|自分の目的を見つける。https://jonathanmpham.com/ja/ジャーナリング/ニックヴイチチ自分の目的を見つける/
パウロ・コエーリョ|残された30日間。https://jonathanmpham.com/ja/ジャーナリング/パウロコエーリョ残された30日間/
ヘレン・ケラー:「もし私が3日間だけ見えるなら…」https://jonathanmpham.com/ja/ジャーナリング/ヘレンケラーもし私が3日間だけ見えるなら/
まとめ
人生の意味とは、非常に個人的な体験です。万人を満足させるような唯一の答えは存在しません。そして、たとえ今見つかったとしても、その解釈が将来的に変わる可能性もあります。
もしかすると、人生の意味とは「見つけるもの」ではなく、「創り出すもの」なのかもしれません。
もしかすると、それは他者との関係、社会への貢献、または自己成長の中に見いだされるものかもしれません。
もしかすると、それはただ「生きること」、世界の美しさと複雑さを経験することにこそあるのかもしれません。
どのようなものであれ、重要なのは自分自身で道を切り開き、意識を持ってその道を歩むことです。たとえその道が曲がりくねったものであっても、重要なのは最終目的地ではなく、その「旅そのもの」です。
この旅を通じてこそ、人生は変容し、より高次の「次元」へと到達するのです。
ですから、存在の神秘、未知の美しさ、そして目の前に広がる無限の可能性を受け入れましょう。
毎日を心を込めて、感謝の気持ちと慈悲の心、そして探求の精神で生きましょう。
そして、人生の本当の意味は壮大な宇宙計画の中にあるのではなく、私たちの日常を構成する無数の小さな瞬間の中にあるのだということを忘れないようにしましょう。
いのち短し
恋せよ少女
朱き唇
褪せぬ間に
熱き血潮の
冷えぬ間に
明日の月日の
ないものをいのち短し
恋せよ少女
いざ手をとりて
彼の舟に
いざ燃ゆる頬を
君が頬に
ここには誰れも
来ぬものをいのち短し
恋せよ少女
波に漂う
舟の様に
君が柔手を
我が肩に
ここには人目も
無いものをいのち短し
恋せよ少女
黒髪の色
褪せぬ間に
心のほのお
消えぬ間に
今日はふたたび
来ぬものをゴンドラの唄
生きる意味の歌
他の項目:
- ビジョンボード|豊かさを引き寄せ、人生をスーパーチャージするためのツール
- スピリチュアルな質問の 50 の例|魂に栄養を与える種子
一緒に学びませんか?