本当に生きるとは何か——ただ存在する人生から抜け出すために

are you living or just existing
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夜中の3時に、ふと目が覚めて、天井を見つめながら、胸の奥にぽっかりとした違和感を覚えたことはありませんか。

悲しいわけでもない。痛いわけでもない。
けれど、昼間の忙しさや雑音が消えた瞬間、静かに浮かび上がってくる問いがあります。

「……これでいいのだろうか?

私自身、その感覚をよく知っています。

数年前の私は、表面上は「問題のない人生」を送っていました。安定した仕事があり、決まった生活リズムがあり、特別な不幸があるわけでもありませんでした。
それでも、言葉では説明できない空虚さが、常に心のどこかにあったのです。

毎朝起きて、仕事に行き、食事をして、眠る。ただそれを、時計のように正確に繰り返す日々。
生物学的には、私は確かに「生きて」いました。

しかし実際には、私は自分の人生の中にいながら、どこか幽霊のような存在でした。

特に印象に残っているのは、以前勤めていた会社で「コンテンツ・オフィサー」として働いていた頃です。肩書きを聞くと、どこか創造的でやりがいのある仕事を想像するかもしれません。
ですが現実は、SKUのノルマを満たすために、延々とデータをコピー&ペーストする毎日でした。正直に言えば、その仕事は「クリエイティブ」を装った単なるデータ入力でした。

職場環境は悪くありませんでした。福利厚生は整っており、同僚も親切で、出世のルートも明確でした。
安全で、快適な場所だったと思います。

それでも私は、自分がまるで「ミイラ」のように感じていました。

指示に従い、給料を受け取りながら、心の中にはまったく火が灯っていなかったのです。
人生の限られた時間を「安定」と引き換えに差し出し、外の世界は危険だと自分に言い聞かせながら、その場所を離れることを恐れていました。

私は「完璧に存在して」いました。
けれど、「生きる」ということを、完全に忘れてしまっていたのです。

あなたにも、似たような経験はありませんか。
もし答えが「はい」なら、この文章はきっとあなたのためのものです。
そして、もし今は「いいえ」だとしても、どうかすぐに離れないでください。将来、同じ場所に立つことがないとは、誰にも言い切れないのですから。

本記事の要点

  • 私たちの多くは「生きている」のではなく、ただ「存在している」だけの状態に陥っています。「忙しさ」を生きている証だと勘違いし、「安全」を成功だと思い込んでいるのです。
  • 過剰な娯楽に逃げたり、他人からの評価を求め続けたり、人間関係を損得で捉えている場合、私たちは「生きているつもり」で、実は「存在している」だけかもしれません。
  • 私たちが「生きる」ことを避け、「存在する」ことを選んでしまう理由の多くは、そのほうが安全に感じられるからです。選択の責任を負わずに済むよう、社会が用意した台本に従ってしまうのです。
  • 本当に目覚めるためには、自分の有限性と向き合い、内なる真実を見つけ、それに沿って行動する勇気が必要です。

「生きている人」と「ただ存在している人」の5つの違い

「生きる」と「存在する」の違いとは、何でしょうか。

端的に言えば、「存在する」とは受動的な状態です。物事が自分に起こるままに流されている状態
一方で「生きる」とは能動的な営みです。行動や選択が自分の内側から生まれている状態だと言えます。

この違いは、日常のささやかな場面にこそ、はっきりと表れます。

生きる ただ存在する

  1. オートパイロットで生きるか、「今」に在るか

今日、ママンが死んだ。もしかすると昨日かもしれないが、よく分からない。

アルベール・カミュ『異邦人』

ただ存在している状態
私たちは無意識の「自動運転」で日々を過ごします。
通勤中、どうやって会社に着いたのか覚えていない。会議ではうなずいているのに、話の内容は頭に入っていない。
身体はそこにあっても、意識はどこか遠くにあるのです。

本当に生きている状態
自分の行動に意図を持っています。
コーヒーの味、肩に入っている力、相手の言葉の一つひとつに気づいています。
たとえ退屈な作業であっても、「やらされている」のではなく、「自分がやっている」という感覚があります。

  1. 麻痺させるか、感じきるか

ただ存在している状態
心の空白を埋めるために、私たちは刺激や娯楽に逃げ込みます。
10分も一人でいられず、スマートフォンを触り続ける人。
「YOLO(人生一度きり)」を掲げながら、実は自分の思考から逃げるために、毎週のように酒に溺れたり、刹那的な関係を重ねたり、ゲームの世界に没頭したりする若者たち。

私には、それが「楽しんでいる」ようには見えません。
現実から、そして自分自身から逃げ続けているように見えるのです。

本当に生きている状態
内側にある「暗さ」と向き合う勇気があります。
悲しみ、不安、喜び――人間が持つ感情のすべてを、すぐに麻酔で消そうとはしません。
痛みや苦しみは、排除すべきバグではなく、「生きている証」だと理解しています。

  1. 同調か、本物の自分か

ただ存在している状態
自分の価値を、外からの評価で測ります。
哲学者マルティン・ハイデガーが「世間」「ひと」(The They)と呼んだ状態――
「みんながやっているから」「普通はそうするから」という理由だけで行動します。

かつて私は、非常に挑発的な服装をする同僚女性と働いたことがあります。
その理由を聞かれた彼女は、「男性をドキッとさせるため」と笑って答えました。そして、質問した同僚もそれにうなずいていたのです。

私は怒りよりも、むしろ哀しみを感じました。
彼女の価値が、「どれだけ他人の注目を集められるか」にまで縮小されているように見えたからです。
彼女は、自分自身ではなく、他人の欲望を映す「殻」になってしまっているようでした。

本当に生きている状態
自分の内側の価値観によって生きています。
服装、仕事、言葉遣い――それが「いいね」や承認を得られるかどうかではなく、自分自身と一致しているかどうかを基準に選びます。
神学者ポール・ティリッヒの言う「生きる勇気」を持ち、たとえ浮いた存在になったとしても、自分の存在を肯定します。

  1. 取引か、関係か

地獄とは何か。それは、愛することができない苦しみである。

フョードル・ドストエフスキー

ただ存在している状態
人を「手段」として扱います。
人間関係は、快楽、地位、人脈など、「何が得られるか」の計算で成り立っています。

この状態では、自我という牢獄の中に閉じ込められ、本当の意味で誰ともつながることができません。
すべての関係にROI(投資対効果)を求めているからです。

本当に生きている状態
人を「あなた」として扱います。
哲学者マルティン・ブーバーの言う「我―汝」の関係です。
相手から何かを得るためではなく、ただその人の存在に立ち会うために関係を結びます。
弱さを見せ、思いやりを持ち、つながりが人生に不可欠であることを理解しています。

  1. いつかを待つか、今を生きるか

ただ存在している状態
いつも「いつか」を待っています。
週末を、休暇を、定年後の人生を楽しみにしながら、「今」は通過点としてやり過ごします。

本当に生きている状態
「今」こそが、唯一の現実だと知っています。
メメント・モリ――人は必ず死ぬ
だからこそ、先延ばしにする余裕などありません。
平凡な日常の中にさえ、意味を見出しながら生きています。

項目ただ存在している人
本当に生きている人
意識のあり方

受動的・自動運転

無意識に日々をやり過ごしている状態。

能動的・「今」に在る
自分の行動に意図を持ち、感覚に敏感。
感情への向き合い方

麻痺と逃避

刺激や娯楽(スマホ、酒等)で自分から逃げる。

直視と受容
痛みや悲しみも「生きている証」として感じきる。
自己の基準

同調と外部評価

世間体や他人の注目、承認を基準に行動する。

本来の自分と価値観
他人の目ではなく、自分の内側と一致して生きる。
人間関係

取引と手段

損得勘定やROI(投資対効果)で人を扱う。

共鳴とつながり
相手を「汝」として尊重し、純粋に関係を築く。
時間の捉え方

「いつか」を待つ

週末や老後のために、今をただの通過点にする。

「今」を生きる
死(メメント・モリ)を意識し、日常に意味を見出す。

生きる ただ存在する

なぜ多くの人は「生きている」のではなく「存在している」だけなのか

「存在する」ことが、これほど空虚であるなら――
なぜ私たちの多くは、無意識のうちにその状態を選んでしまうのでしょうか。
なぜそれが、人間の“初期設定”のようになっているのでしょうか。

答えは、正直に言えば、あまり心地よいものではありません。
それは「安全だから」です。
そして「楽だから」です。
何よりも、「本当に生きること」が、私たちにとって怖すぎるからなのです。

同調がもたらす安心感

私たちは提示された世界の現実を受け入れる。ただそれだけだ。

クリストフ『トゥルーマン・ショー』

「ただ存在する」生き方は、退屈ではあっても、非常に楽です。
何をすればいいかを、最初から教えてくれます。

学校に行く。
就職する。
家を買う。
定年まで働く。
そして人生を終える。

この「台本」に従っていれば、迷う必要はありません。
もし不幸になったとしても、「社会が悪い」「時代が悪い」と、責任を外に置くことができます。

一方で、「生きる」ということは、自分で選択をするということです。
そして選択には、失敗の可能性が常に伴います。

私は企業社会の中で、この光景を何度も目にしてきました。
仕事が心底嫌で仕方がないのに、辞めようとしない人たち。
理由は単純です。
未知の不安よりも、「慣れ親しんだ苦しみ」のほうが安全に感じられるからです。

安定した給料という鎖につながれたまま、
不確実な世界に踏み出す勇気を持てずにいるのです。

現代社会という仕組み

物質的な向上を追求するあまり、内なる成長から得られる満足を無視するほど、私たちの社会から倫理的価値観が失われていく。

ダライ・ラマ14世

私たちは、「存在する」状態にとどまるよう巧妙に設計された時代を生きています。

現代社会が評価するのは、「何者であるか」ではなく「何を持っているか」です。
自己実現よりも、蓄積。
内面よりも、成果。

幼い頃から、私たちは「役に立つ人間」「生産的な人間」であることを求められてきました。
その結果、「意識的に生きる」ことよりも、「忙しくしている」ことのほうが価値があるように錯覚してしまいます。

私自身も、かつてはそうでした。
忙しさを、誇りのように身にまとい、
週60時間働きながら、昇進やより大きな家を追い求めていました。

「それを手に入れたら、ようやく生きられる」
そう信じていたのです。

しかしそれは、結局のところ蜃気楼にすぎませんでした。

私たちは、回し車の中を走るハムスターのように、
速く、必死に動き続けながら、
どこにも到達していないのです。

もし望んだものを得られなければ、苦しむだろう。もし欲しくないものを得てしまったら、苦しむだろう。自分がまさに望んでいたものを手に入れたとしても、それでも苦しむだろう、何故ならそれを永遠に自分のものにはできないから。

ソクラテス

不死の錯覚

私たちは、いつか死ぬことを知っている。だがその日は、はるか先にあると想像している……
そのため、人生に対する無気力な態度にほとんど気づかないまま、些細な用事をこなしている。

ヘレン・ケラー|『目の見える3日間

人が「ただ存在する」生き方にとどまってしまう、最も深い理由はここにあります。
私たちは、無意識のうちに「時間は無限にある」と思い込んでいるのです。

死は病院や葬儀場の奥に隠され、日常から切り離されています。
そのため、多くの人が「自分はまだ大丈夫だ」という、不死の幻想の中で生きています。

  • 「その本は、定年後に書けばいい」
  • 「気持ちは、いつか伝えればいい」

時間が無限だと思えば、今日の選択は軽くなります。
今日を無駄にしても、明日があると思えるからです。

しかし、医師から余命を告げられたとき、
あるいは大切な人を突然失ったとき、
その幻想は一瞬で崩れ去ります。

そのとき初めて、私たちは気づくのです。
「いつか」という日は、カレンダーのどこにも存在しないのだと。

けれど、その衝撃が訪れるまでは、
多くの人が半分眠ったまま人生を歩き、
「存在する」という奇跡を、意識することなく通り過ぎてしまうのです。

人間は軽薄なもんですな。生命がどんなに美しものかということを死ぬ直前に初めて知る。

黒澤明|映画『生きる』

なぜ多くの人は「生きている」のではなく「存在している」だけなのか

哲学的に考える「本当に生きる」ということ

「本当に生きる」とは、常に高揚感や幸福を感じ続けることではありません。
この点については、古今東西、多くの哲学者が共通して指摘してきました。

むしろその本質は、
自分の人生を「自分のものとして引き受けているかどうか
――つまり、ある種の「引き受け(オーナーシップ)」にあります。

ハイデガー:自分の〈現存在〉を引き受ける

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーによれば、私たちの多くは「頽落(たいらく)」と呼ばれる状態にあります。
それは、「世間」「ひと)」Das Man)の世界へと流れ落ちていくことです。

人が話している話題を話し、
人が読んでいるものを読み、
「みんながそうしているから」という理由で行動する。

唯一無二の個として立つことは、決して居心地の良い経験ではありません。
だから私たちは、その責任から無意識に逃げてしまうのです。

ハイデガーは、本当に生きるためには
「非本来的な生」から「本来的な生」へと移行する必要があると説きました。

それは、奇抜になることでも、風変わりになることでもありません。
必要なのは、自分の〈現存在(ダーザイン)〉――
「ここに在る自分の生」を、自分自身のものとして引き受けることです。

  • 「大人として当然だから」という理由で仕事を選ぶのが、「存在している」状態。
  • その仕事が自分の目的に合っていると、意識的に判断して選ぶのが、「生きている」状態。

外から見れば、同じ行動に見えるかもしれません。
しかし内側の姿勢は、まったく異なります。
一方は服従であり、もう一方は選択なのです。

サルトル:「悪しき信仰」から抜け出す

ジャン=ポール・サルトルは、この問題をさらに掘り下げ、「悪しき信仰bad faith/ mauvaise foi)」という概念を提示しました。

それは、「自分には選択の余地がない」と自分自身に言い聞かせる、自己欺瞞のことです。

サルトルは、カフェで働くウェイターの例を挙げています。
彼の動きは、どこか過剰に正確で、どこか芝居がかっています。
そのウェイターは、「ウェイターという役」を演じているのです。

彼は自分を、一人の自由な人間ではなく、
「ウェイター」という役割、ラベル、モノへと縮小してしまいます
「自分はウェイターなのだから、こう振る舞うしかない」
そう思い込むことで、いつでも店を出て行けるという自由から目を逸らすのです。

私たちも、同じことを日常的にしています。

  • 「私はもともと内向的な人間だから」
  • 「子どものために、この結婚に耐えるしかない」
  • 「自分は会社員タイプの人間だ」

本当に生きるとは、こうしたラベルを拒否することです。
私たちは、岩やペンのような固定された物体ではありません
私たちは「過程」であり、常に変化し続ける存在です。

生きるとは、
自分が自由であり、常に自分を再定義できるという責任を引き受けること
なのです。

私自身の人生哲学:「道」を生きる

私自身、人生の中で幾度となく精神的な危機を経験した末に、
一つのシンプルな考え方に行き着きました。

それは、
生きるとは、自分自身の〈道〉を見つけ、それに従うこと
です。

この〈道〉という考えは、道教の「道(タオ)」や、
東アジアの武道・宗教・修行における「道」という概念から着想を得ています。

〈道〉に従うとは、
直感、良心、無意識といった内なる核に耳を澄まし、
それに逆らうのではなく、その流れに身を委ねて行動することです。

それは、自我の境界が一時的に溶け
同時に、より大きな全体の一部となる感覚でもあります。

  • 画家にとっての〈道〉は、魂を揺さぶる作品を生み出すことかもしれません。
  • 研究者にとっては、真理の探究でしょう。
  • 親にとっては、新しい命を育むことかもしれません。

〈道〉は、人それぞれ異なります。
しかし、自分自身の〈道〉を見出すことは、誰にでも可能です。

たとえば、私がこうして文章を書いているときや、新しい言語を学んでいるとき、
私は「フロー」の状態に入ります。
自己意識が薄れ、お金や地位への不安も消えていきます。

私は、どこかへ到達しようともがく歯車ではなく、
ただ流れの一部として、行くべき方向へ運ばれているのです。

もし、あなたにも同じような感覚をもたらすものがあるなら、
それは、あなた自身の〈道〉である可能性が高いでしょう。

それは、「世間」に合わせるために本来の自分に逆らって泳ぐのをやめ、
自分自身の魂の流れに身を任せ、やがて「海」へと向かう決断なのです。

自分だけの宗教」と言っても、それは自分勝手で、寄せ集めのスピリチュアル・ミックスのことではない。私が語るのは、勇気ある、内に根ざした、運命を受け入れ、知識に基づいた、知性ある人生のあり方だ。そこには「崇高さ」と「超越性」がある。

それは共同体の中でも共有できるし、伝統的な宗教団体の内外を問わずに実現できる。敬虔な信者であっても、無神論者や不可知論者であっても構わない。

「自分なりの宗教的生き方」を持つためには、目を覚まし、自分だけの「驚きと超越」への扉を見つけなければならない。

トマス・ムーア

自己超越

「本当に生きる」ために今日からできること

「本当に生きる」とは、抽象的な理想ではありません。
それは、今日この瞬間から始められる、極めて具体的な態度の変化です。

  1. 自分の「終わり」を見つめる

死の身体的現実は私たちを打ち砕くが、死という概念は私たちを救う。

アーヴィン・ヤーロム

無気力に対する最大の処方箋は、
自分の時間が有限であると、本気で理解することです。

余命宣告を受ける必要はありません。
ただ、「自分には永遠の時間がある」という幻想を、やめる必要があります。

この教訓を最も美しく描いた作品の一つが、黒澤明監督の名作『生きる』です。

主人公・渡辺勘治は、30年間、役所で書類に判を押し続けてきた官僚です。
スーツを着たミイラのような存在で、何も間違ったことはしていません。
しかし同時に、「本当に生きた」と言えることも、何一つしていませんでした。

渡邊勘治 生きる

ある日、彼は自分が胃がんであり、余命が1年もないことを知ります。
最初は絶望し、酒や夜の遊びに逃げますが、それらが空虚な気晴らしにすぎないことに気づきます。

そして彼は、残された時間で「たった一つの意味あること」を成し遂げる決意をします。
それが、貧しい地域のための公園づくりでした。

妨害、官僚主義、脅し――
数々の障害が立ちはだかりますが、渡辺は静かな決意をもって前に進み続けます。

歯車として「存在する」人生から、
死と向き合うことで「生きる」人間へと変わった瞬間でした。

渡邊勘治 生きる

あなたにも、同じことができます。
やることは、とてもシンプルです。

もし、あと1年しか生きられないとしたら、
それでも私は、今日と同じことをしているだろうか?

もし答えが「いいえ」なら、
あなたは今、「生きている」のではなく、「存在している」だけかもしれません。

もし今週が最後の週だったとしたら、何を最も大切にする?どう生きる?どう愛する?今日、どんな真実を語る?

トニー・ロビンズ

  1. 内なる「火」を見つける

「生き方」は、頭で考えて見つかるものではありません。
行動を通してしか、見えてこないのです。

自我が溶け、時間感覚を忘れる「フロー」の状態に入れる活動を探してください。

かつて私が、デジタル業界の安定した会社員生活を辞めたとき、
それは決して「合理的な決断」ではありませんでした。
明確なキャリアパスを手放し、不確実性の中へ飛び込んだのです。

その後の私は、
新しい言語を学び、哲学を探究し、このブログに向き合う日々を送りました。
どれも、安定を保証するものではありませんでした。

多くの人から見れば、愚かな選択だったかもしれません。
それでも、私は久しぶりに「時計を見ない」時間を生きていました。

実存哲学について書いているときも、
難しい日本語文法に苦戦しているときも、
魂の奥に、確かな「燃え」を感じていたのです。

私はもう歯車ではありません。
創り手であり、探究者であり、
自分自身の〈道〉を生き始めた人間でした。

もしあなたも、同じような違和感を抱えているなら、
次の問いを自分に投げかけてみてください。

何をしているとき、時間を忘れるだろうか?

それが、あなたの〈道〉です。
たとえ今はお金にならなくても、そこへ少しずつ重心を移していってください。

  1. 承認よりも、本物であることを選ぶ

本当に生きるためには、
誤解される覚悟が必要です。

多くの人が「悪しき信仰」に陥る根本原因は、
他人からどう思われるかへの恐怖です。

親に何と言われるか。
友人にどう見られるか。
社会から外れてしまわないか。

その恐怖ゆえに、
本当は違和感のある仕事や関係に、留まり続けてしまいます。

この問題に対する解毒剤は、
「嫌われる勇気」を実践することです。

誰も見ていない観客のために、
人生という舞台で演じるのをやめてください。

あなたが答えるべき相手は、ただ一人。
あなた自身です。

評判の管理をやめた瞬間、
あなたは初めて、自分の人生を管理し始めるのです。

自らに嘘を付くのをやめ給え。自らに嘘をつき、またその嘘に耳を傾ける者は、自らのうちなる真実や周囲の真実を区別できなくなり、だから自身と周囲に対するあらゆる尊敬を失うことになる。ついには、敬意を一切払えずに、愛することをやめてしまうのだ。

フョードル・ドストエフスキー

  1. 自己を超える

一見すると矛盾しているようですが、
本当に生きるためには、「自分を忘れる」必要があります。

ここで言う「自分」とは、
社会が押し付けた役割や、
常識や期待から作り上げた仮の自己のことです。

人生で最も「生きている」と感じた瞬間を思い出してみてください。
それらの多くは、自分を超えた何かとのつながりの中にあったはずです。

自然と一体になったとき。
誰かと深く心が通ったとき。
宇宙や神的なものを感じたとき。

「存在している」状態では、
私たちは自分の頭の中に閉じ込められています。
不安、退屈、地位、損得――。

「生き始める」と、
意識は自分の外へと開かれます。

問いは、
「何が得られるか」から
「何を与えられるか」へと変わります。

渡辺が公園づくりに身を捧げたように、
親が子育ての中に喜びを見出すように、
意味は多くの場合、「貢献」の中にあります

もし「地獄」が愛せない状態だとしたら、
「天国」とは、愛を実践することそのものなのかもしれません。

「本当に生きる」ために今日からできること

まとめ

最終的に、
どんな哲学者も、どんなブログ記事も、
あなたに「生きろ」と強制することはできません。

オートパイロットのまま生き続ける自由も、
あなたにはあります。
それは、安全で、快適な選択です。

ただ、忘れないでください。

そして、あなたは死にます

死だけが、誰にとっても確かな真実です。
この一文を読んでいる間にも、時計は進んでいます。

「お金が貯まったら」
「子どもが大きくなったら」
「準備が整ったら」

あなたが待っている「いつか」は、
決して保証されていません。

あなたは、自分の人生の著者です。
これまでは、社会や恐怖が物語を書いてきたかもしれません。

しかし、これから先は、あなたの手に委ねられています。

今この瞬間に、
「存在する」のをやめ、「生きる」ことを選ぶことができます。

今に在り、
自分の真実を語り、
取引ではない愛を生きることができます。

いのち短し
恋せよ少女
朱き唇
褪せぬ間に
熱き血潮の
冷えぬ間に
明日の月日の
ないものを。

渡邊勘治|映画『生きる』

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