煙突を降りた二人の男

two men climb down a chimney
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――謙虚さと不確実性を受け入れるためのユダヤの寓話

ある青年がいました。大学を卒業したばかりの彼は、「この町でいちばん賢いラビ」に教えを請おうと、その家を訪ねました。
扉を開けたラビに、青年は言いました。

「ラビ、どうか私に教えを授けてください。ユダヤの叡智を学びたいのです。」

ラビはにっこりと笑い、こう言いました。

「若すぎますよ。十年後にまたおいでなさい。そしたら始めましょう。」

しかし、青年は引き下がりませんでした。

「どうかチャンスをください。私は解釈学も、記号論も、脱構築も、論理学も勉強してきました。きっとできます。試してみてください!」

根負けしたラビは、その熱意に少し感心しながら言いました。

「分かりました。では中に入りなさい。一つ質問をしましょう。」

青年が腰を下ろすと、ラビはこう問いかけました。

二人の男が煙突を降りました。下に着くと、一人は顔にすすがつき、もう一人はついていません。二人のうち、一人は顔を洗い、一人は洗いません。さて、どちらが顔を洗うでしょう?

青年の顔がぱっと明るくなり、即答しました。

「すすのついた方です!」

ラビは首を振りました。

「違いますよ。洗うのは、すすのついていない方です彼は相手の顔の汚れを見て、『自分も汚れているに違いない』と思い、顔を洗いに行ったのです。さあ、もう帰りなさい。十年後にまた来なさい。」

青年は抗議しました。

「そんな、たった一問で追い返すなんて。今のは準備運動です。もう一問お願いします!」

ラビはため息をつきつつも、二問目を出しました。

「二人の男が煙突を降りました。下に着くと、一人は顔にすすがつき、もう一人はついていません。二人のうち、一人は顔を洗い、一人は洗いません。さて、どちらが顔を洗うでしょう?」

青年は少し考えてから答えました。

「すすのついていない方です。」

ラビは眉をひそめました。

「小賢しく考えないでください。今度は逆です。すすのついた方が洗うのです唇に味がするし、目にも入る。自分が汚れていることくらい分かります。はい、もういいでしょう。帰りなさい。」

「あと一問だけ! 本当にわかってきたんです!」

青年の必死の頼みに、ラビは三度目のため息をつき、三問目を出しました。

「二人の男が煙突を降りました。下に着くと、一人は顔にすすがつき、もう一人はついていません。二人のうち、一人は顔を洗い、一人は洗いません。さて、どちらが顔を洗うでしょう?」

青年は長い沈黙のあと、もう自信のかけらも残っていない声で答えました。

「すすのついていない方……でも、何か別の理由で……でしょうか?」

ラビは勢いよく立ち上がると、扉を開け放ちました。

「もう帰りなさい、お願いだから! 二人とも顔を洗うに決まっているでしょう。煙突を降りて顔にすすがつかないなんて、あり得ないじゃありませんか!

💬💬💬 コメント

この寓話は、ユーモラスでありながら、「純粋な理屈だけでは世界を読み解けない」という鋭い真理を教えてくれます。

青年は論理、理論、知識を総動員して答えを導こうとしましたが、三回とも外しました。
なぜでしょうか?

それは、彼が「現実」ではなく、「抽象化した世界」を相手にしていたからです

私たちもよく同じことをしてしまいます。
考えすぎ、分析しすぎ、未来を予測しようと複雑な思考モデルを積み上げ――
そのせいで、目の前の単純で明白な事実を見落としてしまうのです。

不確実さを受け入れるということは、頭の中の理屈だけでなく、実際の煙突――つまり現実の世界――に降りていくことです

真実はいつも洗練された理論の中にあるとは限りません。
時には、もっと単純で、目の前に当たり前のように転がっていることもあります。

それを見抜けるかどうかを決めるのは、自分の思い込みを脇に置けるだけの謙虚さなのです

オリジナルの英語記事

Two Men Climb Down a Chimney. https://stephenpersing.wordpress.com/2015/07/03/two-men-climb-down-a-chimney/

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