怒りの広島 祈りの長崎|瓦礫の中から学んだこと

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この世界には、一度耳にすると心の奥底に深く刻まれ、歴史の重みと人間の営みを静かに呼び覚ますような言葉があります。私にとって、そのひとつが「怒りの広島 祈りの長崎」という言葉でした。

日本に深い関心を持つ一人の外国人として、この繊細なテーマに向き合うことには、最初とても躊躇がありました。あまりに大きな悲劇、その背景にある文化的な文脈、そして今なお受け継がれている痛み。外の人間がどこまで踏み込んでよいのか——いや、踏み込むべきではないのではないかという葛藤がありました。誤解してしまうこと、単純化してしまうこと、あるいは無自覚に誰かの心を傷つけてしまうことへの恐れ。それは当然のものだと思います。

けれども、考えれば考えるほど、むしろ向き合わずにはいられない思いが募っていきました。歴史の物語の奥にある「人間の心」を、自分なりにでも見つめてみたい。そう感じたのです。

以下に記すのは、あくまで私自身の個人的な思索の記録です。外国人として、そしてキリスト教徒として、いくつかの日本語の資料を手がかりに、広島と長崎の物語に耳を傾け、そこから人間の精神や、闇の中を歩んできた軌跡、そして平和と意味を求め続ける営みに何を学べるのかを考えてみようとした試みです。

この文章は、「怒り」や「祈り」という言葉、あるいは広島・長崎という都市の歴史のすべてを説明しようとするものではありません。それよりも、私という一人の部外者がその言葉の持つ層を少しでも掘り下げ、自分なりの理解と気づきを綴ってみようとするものです。

このテーマが持つ重みと尊さを受け止めつつ、歴史的な出来事というよりも、いまも人々の中に生き続ける「記憶」として、この文章を丁寧に綴っていきたいと考えています。

主なポイント

  • 広島の「怒り」は、私にとって単なる破壊的な感情ではなく、正義を求める聖なる憤りであり、過去を忘れないという強い意志、そして世界平和への力強い推進力でもあると感じます。
  • 長崎の「祈り」は、浦上に受け継がれる独自のキリスト教的伝統や、永井隆博士による「浦上燔祭説」のような苦難の神学的解釈、そして復元された浦上天主堂など、記憶の象徴的な表現に深く根ざしているように思えます。
  • 特筆すべきは、長崎の「祈り」が、内面に向いた信仰や沈黙の苦しみから、平和を語る積極的な証言の姿勢へと変化してきたことです。被爆者の中には、体験を語ることへの葛藤を乗り越え、長崎を「最後の被爆地」とする願いを強く持つようになった人々もいます。
  • 結局のところ、本稿の目的は、「怒り」と「祈り」という言葉に込められた人間の普遍的な感情の重なりを探ることにあります。深い悲しみに対する応答としての、人類への愛、共感への呼びかけ、そして平和への揺るぎない誓い。それこそが、広島と長崎の語りが私たちに問いかけているものなのだと思います。

語られてきた物語を紐解く

「怒りの広島・祈りの長崎」という表現は、原爆投下に対する二つの都市の反応や、その後の平和運動・反核運動における姿勢の違いを象徴する言葉として広く知られています。日本国内のみならず、時に海外でも耳にするほどに、この言葉はある種の「物語」として定着しているようです。

しかし、被害を受けた人々の経験や感情というものは、決して簡潔なラベルで表現できるような単純なものではありません。

悲しみ、痛み、記憶、そして平和への渇望。こうした思いは極めて個人的であり、一人ひとりの心の中に独自のかたちで流れているものです。都市全体があたかも単一の感情を抱えているかのように描くことには、やや無理があるのではないか──そんな声も耳にしたことがあります。「怒りの広島・祈りの長崎」という言葉も、見方によっては一種の“プロパガンダ”ではないかという指摘すらあります。

「プロパガンダ」という言葉には強い響きがありますが、より穏やかに言えば、それは“集合的記憶”や“支配的なナラティブ”が、ある特定の方向性を持って形作られていくプロセスを指しているのかもしれません。

もしかすると、こうした言葉が生まれる背景には、「混沌の中に秩序を見出したい」という人間の本能的な欲求があるのではないでしょうか。あるいは、そうした言葉が、無意識のうちに物語を語る上で都合の良い“枠組み”として利用されてきたのかもしれません。

こうした問いが浮かびます──なぜ私たちは、深く複雑な現実を理解しようとする際に、「二項対立」や「象徴的なフレーズ」に引き寄せられるのでしょうか?

それは、記憶のため? 明確さを求めるため? ──あるいは、そうした言葉の「明快さ」が、かえって個々人の多様で繊細な真実や、都市全体が抱える多面的な魂を覆い隠してしまってはいないでしょうか。

広島の「怒り」|「聖なる怒り」という可能性?

では、「怒り」と「祈り」というラベルが、表面的な印象よりもはるかに複雑なものであるとすれば、広島の「怒り」とは一体何を意味しているのでしょうか。

調べる中で私が出会ったのは、詩人・峠三吉の存在でした。彼の詩集『原爆詩集』は、当時の検閲の中で地下出版を余儀なくされたものです。その冒頭には、こんな叫びのような言葉が刻まれています。

人間を返せ。

この一文に込められた感情は、疑う余地もなく「怒り」です。しかし、その怒りは、果たして単なる破壊的な激情なのでしょうか?

私にはそうは思えません。むしろそれは、極限の非人道性に対する正義の叫びであり、こうした惨劇を二度と繰り返させまいとする激しい誓いのようにも感じられます。

忘却に抗い、歴史を風化させないために、そして脆く傷つきやすい人間の命と尊厳を守るために、放たれた声──それが、広島の「怒り」ではないでしょうか。

破壊を目的とする怒りではなく、「目覚めさせる」ための怒り。変化を促し平和の実現へと向かわせるための怒り。

それは、人を飲み込む怒りではなく、心に火を灯す怒りです。「二度と繰り返してはならない」という信念に基づき、記憶と対話を未来へとつなぐ、力強い原動力。

広島の「怒り」は、「破壊の力」ではなく、「守るための力」──そして、「人間らしさを取り戻すための力」なのかもしれません。

原爆ドーム

画像クレジット:Wikimedia

長崎の「祈り」──信仰と苦難、そして希望が織りなす物語

浦上の影──信仰と悲劇の交差点

もうひとつの都市、長崎。「祈りの長崎」と語られるとき、その背景にある重要な場所のひとつが、被爆の震央地となった浦上地区です。

浦上は、原爆の爆心地であっただけでなく、日本におけるキリスト教の歴史において、非常に特異な位置を占めています。江戸時代から続いたキリスト教禁制のなかで、代々にわたり信仰を守り抜いた「隠れキリシタン」たちが暮らした地域でした。

しかし、1945年8月9日。長きにわたって信仰を秘かに守ってきたこのコミュニティが、まさにその日に壊滅的な打撃を受けることになります。NHKの報道によれば、当時浦上地区には約12,000人のカトリック信者が暮らしており、そのうちおよそ8,500人が原爆で命を落としたと推定されています。

あまりに過酷な現実――信仰のために耐え抜いてきた人々が、一瞬にしてほぼ消え去ってしまったという事実は、言葉を失うほどの衝撃です。そして、まさにこのような極限の悲劇の中から、「祈りの長崎」という物語の核となる思想が生まれました。その中心にいたのが、永井隆博士という人物です。

永井博士は自身もカトリック信者であり、医師として被爆後の長崎で救援活動に身を捧げました。彼自身、原爆で最愛の妻を失っています。そんな彼が打ち立てたのが、「浦上燔祭説(うらかみはんさいせつ)」という思想です。

それは、被爆によって壊滅した浦上のカトリック共同体の犠牲を、「神の摂理」として捉えるものでした。浦上の苦しみは、人類の罪を贖うための「無垢の小羊」のような供犠であり、その犠牲によって戦争は終結し、世界に平和がもたらされたのだ――永井博士は、原爆投下から3ヶ月後、崩れた浦上天主堂の中で行われた追悼ミサの中でそう語りました。

長崎市永井隆記念館

怒りの広島 祈りの長崎|長崎市永井隆記念館

画像クレジット:Wikimedia

私自身もカトリック信者として、この言葉に胸を深く揺さぶられました。キリストの贖罪という「犠牲の神学」は、たしかに私たちの信仰の中核を成しています。歴史の中でも、人々は計り知れない苦しみのなかに神の意志や意味を見出そうとしてきました。永井博士の語ったこの思想も、深い信仰と痛みの中から生まれたひとつの「理解の枠組み」であり、多くの浦上の人々にとって、耐え難い現実を受け入れるための支えとなったことでしょう。今でも長崎では、永井博士を「聖人」のように敬う声があります

けれども、神がそのような苦しみを「意志した」と捉えること――それはやはり、私自身も含め、多くの人にとって簡単には受け入れがたい考えです。

浦上以外にも、長崎には、そして世界には、キリスト教の枠組みに属さない被爆者が数えきれないほど存在します。では、その人たちの死はどう解釈されるべきだったのでしょうか?

ある議論では、「原爆=神罰」という差別的な言説に対抗するかたちで、この「燔祭説」が生まれたのではないかという指摘もありました。もしそうならば、被害者を「神聖な犠牲者」として捉えることで、非道な中傷に抗い、浦上の人々が自らの尊厳を守ろうとした一つの手段だったのかもしれません。

同じ議論の中で、批判的な視点として、「怒り」の物語よりも、「燔祭」の解釈のほうが、むしろ原爆を投下した側にとって都合がよかったのではないか、という意見もありました。

とても重たい問いかけです。もちろん、永井博士の信仰の誠実さや、その言葉が破壊された共同体に与えた慰めの力を否定するものではありません。しかし同時に、そうした神学的な解釈がもたらす精神的・心理的な重荷――意味を見出そうとする渇望、語らねばならないという使命感、そして「信仰と惨劇の調和」を模索する過程――の大きさを、改めて考えさせられます。

私は今、改めて思います。人間が苦しみのなかでなお、どこかに「聖なる意図」や「祈りの糸口」を探し続けること。その行為自体が、私たちの心の奥底にある、どうしようもなく深い希望の現れなのではないかと。

消えた大聖堂

永井博士のような人物による神学的解釈とは別に、長崎――とりわけ浦上という土地自体もまた、「祈り」というテーマを語りかけてくるように感じます。その象徴的な存在が、かつて東洋一と謳われたカトリック教会、浦上天主堂です。

原爆は、この神聖な大聖堂を一瞬にして破壊しました。しかし広島の原爆ドームが、破壊の象徴として今なおその姿をとどめているのとは対照的に、浦上天主堂の廃墟はやがて撤去され、同じ場所に新たな天主堂が再建されました。もとの外壁の一部は平和公園に移設され、遺構として保存されたものの、主要な跡地は「廃墟として残す」のではなく、「再び建て直す」ことが選ばれたのです。

浦上天主堂、1946 年 1 月 7 日

浦上天主堂、1946 年 1 月 7 日

浦上天主堂

現在の再建された天主堂

画像クレジット:Wikimedia

この決断には、深い意味が込められているように思います。特に、キリスト教徒が多く住む地域の教会が、キリスト教国(アメリカ)によって破壊されたという事実を思うと、なおさらその選択の重みを感じずにはいられません。

外から来た一人の人間として、なぜ「廃墟のまま残す」という選択肢ではなく、「再建」が選ばれたのか――その背景は一筋縄では語れないものがあると感じています。ある見解では、「原爆の爪痕」がそのまま残ることで、米国にとって都合の悪い記憶になるのでは、という政治的配慮があったとも言われています。あるいは、長崎という土地の内部でも、保存への合意形成が難しかったのかもしれません。

また、別の声では「遺構が怒りや悲しみを呼び起こす存在になりうるからこそ、それをあえて取り除き、永井博士の思想に倣って“祈り”に昇華させる選択をしたのではないか」とも語られています。「長崎には祈りしか残っていない」という表現が、こうした選択の象徴として繰り返されてきたことは、非常に示唆的です。

そうした視点から見つめるとき、問いが湧き上がってきます。

――神聖な場を再建するという行為は、破壊の瞬間を記念するよりも、信仰と共同体の再生を優先する、という意志の現れなのか?

――それは、破壊の怒りと正面から向き合うことよりも、未来に向けた「祈り」と「希望」へと記憶の焦点を移す選択だったのか?

この問いは、長崎という街がたどってきた深い精神的選択を象徴しているように思います。

鳴り響く鐘

「祈り」というテーマを語るうえで、永井隆博士の著書『長崎の鐘』は避けて通れません。自身の妻を原爆で亡くし、自らも被爆しながらも、市民の救援に尽力した永井博士が、戦後に書き遺したこの回想録には、被災地・長崎の深い苦しみと、そこから立ち上がろうとする祈りの姿が刻まれています。

「鐘」という存在そのものもまた、象徴的です。カトリックの伝統でも、世界中のさまざまな文化においても、鐘はただ礼拝への呼びかけとしてだけでなく、哀悼の響きとして、また祝福や共同体の結びつきを告げる音としても用いられてきました。

鐘の音は、石碑や建物のように「その場に留まる」ものではありません。空間を超えて鳴り響き、人々の心に静かに染み渡る――その響きは、瓦礫の中にあってもなお、人間の尊厳と希望を響かせることができるのです。

広島・長崎原爆投下追悼式典

怒りの広島 祈りの長崎

画像クレジット:Wikimedia

「長崎の鐘」とは、そうした物理的・比喩的な両方の意味において、今もなお私たちに「祈り」への呼びかけを続けているのではないでしょうか。それは破壊の視覚的な恐怖を記憶するだけでなく、「音」という形で、より柔らかく、しかし確かに希望を響かせるもののように思えるのです。

浦上天主堂を再建し、「鐘」の物語に重きを置いた選択は、こうした記憶のあり方を象徴しているようにも見えます。信仰と祈り、そして平和への希求――それらが、今も長崎の魂の中で静かに、しかし力強く響き続けているのです。

静かな苦しみから、声をあげる証言へ

長崎の「祈り」を語るとき、それはしばしば静かで内省的な信仰、言葉にできない喪失を抱えながらも耐え抜いた霊的な力として描かれがちです。確かに、そのような祈りのかたちは存在しました。しかし、それだけではありません。

NHKの特集記事では、カトリック信者であり、長崎・浦上の被爆者であった片岡ツヨさんの物語が紹介されています。原爆で13人の家族を失い、自身も顔に大きなケロイドを負った片岡さんは、長くの間「静かに生きる」日々を送っていました。それは、多くのカトリック被爆者たちの姿でもあったのです。

しかし、彼女の心の奥底には、永井博士の「原爆は神の摂理である」とする解釈に対する葛藤がありました。ケロイドすらも神のご計画の一部であるのなら、自分は原爆を恨んではいけないのか――そんな思いと向き合い続けていたといいます。

その転機となったのが、1981年のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世による訪日でした。彼はその平和アピールの中で「戦争は“人間のしわざ”です」と語りました。

片岡さんは、この言葉を聞いたとき、「ああ、そうだったのか」と心が落ち着いたと話しています。戦争、ひいては原爆もまた“人間の業”であるという視点は、被害を神の神秘として静かに受け入れるのではなく、人間の選択の結果として捉えることを可能にしました。つまり、それは人間の手で二度と起こさせない責任がある、という認識でもあります。

この「気づき」によって、片岡さんは大きな解放感を得て、自らの体験を語りはじめるようになります。特に修学旅行で訪れる学生たちに対して、核兵器廃絶と世界平和を訴える活動に力を注ぎました。

「人に見られることさえつらく、最初、話をしたときは足が震えてガタガタでした。しかし話し続けるうちに、顔のケロイドのことをすっかり忘れていました」と、彼女は当時を振り返っています。

教皇平和アピール記念碑

ローマ法王平和アピール碑

画像クレジット:dive-hiroshima.com

また、渡辺千恵子さんの存在も忘れられません。被爆により車椅子生活を余儀なくされながらも、「平和の旅」に出て、日本国内外で核兵器廃絶を訴え続けた方です。

こうした姿に触れるたび、私は、長く抱えた信仰や新たに得た理解が、いかに人を行動へと駆り立てるかを思います。心の中の「祈り」が、やがて他者への「訴え」へと変わっていく――それは、沈黙の中にあった痛みが、勇気を持って世界へ語られる力へと変容していく過程でもあるのです。

個人的な癒やしだけでなく、世界の平和への願いを込めた祈り。それは、時に大きな変化を呼び起こす、力強い原動力になりうるのだと、あらためて教えられます。

「最後の被爆地」であることを願って

静かな祈りから声をあげる証言へとつながる個々人の変化の先に、もう一つ、長崎という街全体に流れる強い意志があります。それは――「自分たちの街が、人類史上最後の被爆地であることを願う」という誓いのような想いです。

それは単なる願望ではなく、どこか「祈り」としての重み、ある種の「誓約」として、長崎のアイデンティティに深く根づいています。

この祈りのかたちは、さまざまな実際の取り組みにも表れています。その一つが、「誓いの火灯火台建設運動」です。長崎市の公式サイトによれば、「長崎を最後の被爆地に」という想いから始まったこの運動によって、1987年、平和公園に灯火台が建設されました。今もなお、毎月9日には「誓いの火」が灯され続けています。

この運動のために、シンガーソングライターの寺井一通さんが『燃えろ!誓いの火』という歌を作ったことも、当時の熱意を象徴しています。

また、1987年から毎年開催されている「長崎から」という平和コンサートも忘れてはなりません。これは、シンガーソングライター・さだまさしさんによるもので、あえて8月6日、広島の原爆忌に合わせて開催されています。「被爆地・長崎から平和を発信する」という想いのもと、毎年行われているこのコンサートは、広島への連帯とともに、「長崎の祈り」が決して内向きではなく、人類全体の未来を見据えていることを強く物語っています。

こうした活動を通して見えてくるのは、長崎の「祈り」が、ただ上を仰ぎ見る信仰でも、過去に向けた記憶でもなく、「これからを変えていく」ための誓いであるということです。

かつて終末のような惨禍を経験したこの街が、悲しみの記憶を抱きながらも、その記憶を人類の未来のために使おうとしている。誰にもそのような経験をさせたくないと願いながら、世界に対して静かに、しかし確かな声で語り続ける。

「命を守ること」をただの理念ではなく、自らの責務として受け止めている――そんな長崎の姿に、私は深い感動を覚えます。

怒りと祈りと人間の心

「怒りの広島、祈りの長崎」という言葉が語る現実は、私たちが思う以上にずっと繊細で複雑なものかもしれません。この言葉が示す「怒り」や「祈り」というラベルは、あくまで象徴的なものであって、決してその土地に生きるすべての人々の体験や感情を一括りにできるものではありません。

長崎市のウェブサイトで知った「ピース・フロム・ナガサキ」という歌があります。ピース・セブンというグループによって歌われたこの楽曲は、「原爆への怒り」と「平和への祈り」の両方をテーマにしています。相反するように見えるこの二つの感情が、実は同じ人間の心から湧き上がるものとして共存できることを示しているように思います。

それならば、広島の「怒り」もまた、単なる憤りではなく、「二度と繰り返させてはならない」という切実で神聖な祈りの形ではないでしょうか。そして長崎の「祈り」にもまた、あの悲劇をもたらした行為への静かな怒りが宿っており、平和への固い決意が込められているのではないでしょうか。

保存された原爆ドームの無言の存在と、再建された浦上天主堂の象徴性。峠三吉の詩が持つ率直な叫びと、永井博士や長崎の信徒たちの神学的な探求。表現の違いはあれど、両都市が目指している未来はきっと同じです。「核なき世界」「破壊の連鎖を止めること」。その願いは共通しているように感じます。

文学、音楽、記憶の継承といった芸術は、広島にも長崎にも共通する大切な媒体です。語られなかった思いを表現し、記憶を形にし、希望を次世代へ託すために。広島の峠三吉による魂の詩も、長崎で歌い継がれるメロディーや証言も、世代を越えて平和の願いを伝えています。

こうした表現を通して、私たちはある大切なことに気づくのではないでしょうか。人間性が根底から否定されるような出来事に直面したとき、人は声を上げずにはいられない。その声は時に「怒り」として、時に「祈り」として形を変えながらも、どちらも深い人間愛に根ざしています。「人間を守りたい」「破壊を否定したい」という根源的な願い――それが私たちの共有する人間らしさの証なのかもしれません。

文化や歴史的背景が異なっていても、深い喪失にどう向き合うかという点において、人間の根本的な反応や平和を希求する心は、実に普遍的なものなのだと感じます。こうした深層にこそ、私たちが最も本質的に「人間」である姿が見えてくるのではないでしょうか。

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長崎平和記念式典における献水

広島と長崎:違いよりも共通点が多い

画像クレジット:Wikimedia

心に響いたこと|廃墟からの学び

広島の「怒り」、長崎の「祈り」――この二つの物語をたどる旅は、私にとって単なる知的な学びではありませんでした。それは心の奥深くに染み入る体験であり、今もなお、私の思考と感情を揺さぶり続けています。

この旅を通じて、私が一つ強く実感したのは、「人はどんなに深い絶望の中にあっても、そこに意味を見出そうとする力を持っている」ということです。当初、「怒り」と「祈り」という対比はあまりに単純に思えました。しかし実際には、その間にははかり知れないほど多様で複雑な感情のグラデーションがあることを、数々の個人の物語――たとえば峠三吉、永井博士、片岡ツヨさんの人生――を通して知ることができました。

そして何より、信仰というものについて深く考えさせられました。信仰とは、固定された答えを持つものではなく、問い続けること、揺れ動くこと、そして時に葛藤することを許された、生きた関係性なのだと。苦しみや理不尽という、人生最大の謎に直面したときこそ、信仰は「慰め」や「受容」だけでなく、「勇気」や「正義」や「行動」までも呼び起こす力になるのかもしれません。

「怒り」の道を選ぶにせよ、「祈り」の道を歩むにせよ、私たちに必要なのは謙虚さと畏敬の心ではないでしょうか。あまりにも大きな苦しみに対して、自分が何を知り得るのかという謙虚さ。そして、その苦しみの中からなおも立ち上がり、希望と平和への道を模索し続ける人間の力に対する、深い尊敬と感動。

世界への祈りと決意

1945年、広島と長崎に原子爆弾が投下されてから、すでに何十年という歳月が流れました。けれども、あの出来事がもたらした甚大な苦しみは、今なお、私たち一人ひとりに深い問いを投げかけ続けています。

それぞれの物語の中に息づいていたのは、喪失を超えて立ち上がる「回復の力」、揺れ動く中で形を変えていった「信仰」、怒りを平和への原動力に変えた人々、祈りを未来への誓いへと昇華させた魂たちの姿でした。そこには、人間の心が持つ暗さと同時に、それをはるかに上回る「癒し」と「意味づけ」、そして「よりよい世界」を目指す力があることを、あらためて教えられました。

いまも世界各地で、被爆者や支援者の方々によって、核兵器廃絶と恒久平和への呼びかけが続けられています。その声は、単なる政治的・思想的な議論を超え、人間の根源的な願いに深く触れるものです。

だからこそ、私にできるのは、ただ静かに、しかし心からの「祈り」と「決意」を新たにすることです。

――あの日、命を落としたすべての人々の魂に。そして、命は助かったものの、生涯背負いきれぬ痛みと共に生きた方々に。さらには、今なお戦争や暴力に苦しむ世界中のすべての人々に、深く祈りを捧げます。

そして同時に、自分という小さな存在にできることを見失わないよう、思いを新たにします。無関心ではなく共感を。裁きではなく理解を。そして、心の中にも世界の中にも「平和」を選び取ることが、遠い理想ではなく、日々の選択の中で実現できるものなのだと信じ続けることを。

過去からの声に、もっと丁寧に耳を傾けることができますように。その声に導かれながら、私たちがこの時代を生きる意味を見出し、誰一人として「灰の中で怒り、祈る」ことのない未来を築いていけますように。

世界は悪い状態にある。しかし、私たち一人ひとりが最善を尽くさなければ、それはさらに悪化する。…アウシュビッツを経て、人間がどこまで残酷になれるかを知った。そして広島を通して、何が賭けられているのかを知った。

ヴィクトール・フランクル|『夜と霧』

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