J・K・ローリングはたびたび語っています。
ハリー・ポッターは「突然、頭の中に降ってきたようだった」。
「こんなにワクワクした瞬間はなかった」と。
「これはとんでもなく楽しい作品になる、と直感した」と。
まるでおとぎ話のようですよね。
多くの読者は、この「運命のひらめき」だけを知っていれば十分なのかもしれません。
しかし実際に彼女が歩んだ道のりは、そんなに甘いものではありませんでした。
作家を志す人にこそ、華やかな部分だけではなく、ローリングが小さなアイデアを七巻もの大作へと育て上げるためにどれほどの規律と努力を積み重ねたかを知っておく必要があります。
「もっと有名だったら書けるのに」「お金や時間があればもっと書けるのに」
作家志望者はついそう思いがちです。
けれど結局のところ、作家を定義するのは名声でも資金でもありません。
書く人こそが、作家なのです。
ここから先は、ハリー・ポッターシリーズの裏側にある、「おとぎ話ではない」ローリングの物語です。
第一巻:『ハリー・ポッターと賢者の石』
ハリー・ポッターのアイデアは完成形のまま頭に現れた――
そう語るローリングですが、実際には七巻すべての構成を練るのに数年、そして第一巻『賢者の石』を書くのにさらに一年を費やしていました。
とくに最初の一章は十五稿以上を書き直し、「初期の草稿は、完成版とはまったく別物だった」と言いました。
これは彼女にとって大きな負担でした。
当時ローリングはシングルマザーで、執筆時間は娘のジェシカの様子に左右され、限られた隙間時間で必死に書き進めるしかなかったからです。
「ジェシカが眠った瞬間、近くのカフェに飛び込んで狂ったように書きました。
ほぼ毎晩、書いていました。
そのあと全部、自分でタイプし直さなければなりませんでした。
書くのが大好きなのに、作品が嫌になるほど苦しいこともありました。」
さらに、わずかな修正のために一章まるごと打ち直したり、倍行送りにするのを忘れたために原稿全体を打ち直す羽目になったりと、膨大な労力を要する雑務にも悩まされました。
そのうえ、彼女は第一巻執筆中に
- 母の死
- 父親との断絶
- 不安定で短命に終わった結婚
- 新生児の育児
- 生活保護での極貧生活
- 臨床的うつ病との闘い
これだけの困難を同時に抱えていました。
支えとなる存在もほとんどなく、自殺念慮に苦しんだ末にカウンセリングを受けるようになりました。
知人に小説の話をしたときも、返ってきたのは懐疑的な反応でした。
「彼女は私が現実逃避していると思ったのでしょう。
ひどい状況にいる私が『金儲けのために小説を書こうとしている』と思ったのかもしれません。」
ようやく原稿が完成しても、一年で十数社から不採用通知が届き続けました。
最終的に拾ってくれたのはブルームズベリー社です。
もっとも、出版が決まったときでさえ、ローリングは担当エージェントからこう忠告されました。
「子どもの本では食べていけません。仕事を探したほうがいいですよ。」
出版社の期待もとても低く、最初の発行部数はわずか500部。
うち300部は図書館に寄贈され、最初の印税はわずか600ポンドでした。
――しかし一年後、彼女は億万長者になっていました。

ローリングの作家としての人生|ハリー・ポッター誕生のリアル
第二巻:『ハリー・ポッターと秘密の部屋』
ローリングのエージェントも、ブルームズベリー社も、前言を撤回せざるを得ませんでした。
『賢者の石』は英国で爆発的な人気を獲得し、アメリカの出版社スコラスティックは、当時としては異例の10万5千ドルという高額でアメリカ出版権を落札したのです。
しかし、ローリング本人は依然として順風満帆ではありませんでした。
まず彼女は、自分の成功が本物であると信じられず、『秘密の部屋』執筆中もフルタイムのフランス語教師として働き、幼い娘の世話を続けていました。
そしてこの時期、人生で唯一の**重度のスランプ**に陥りました。
「一作目が大きく話題になって、完全に固まってしまったんです。
二作目が期待に応えられないのではないかと、怖くてたまりませんでした。」
スコラスティック以降も契約が相次ぎ、収入は一気に増えて貧困からは脱しましたが、それは同時に、期待に応えなければならないという大きな重圧を生みました。
さらに成功とともに、世の中からは「お願い」「依頼」「招待」「要求」が洪水のように押し寄せました。
「完全に圧倒されていました。
いろいろな意味で責任を負った気がして……
何かとんでもない失敗をしてしまうのではないかと、偏執的なほど不安になっていたんです。」

ローリングの作家としての人生|ハリー・ポッター誕生のリアル
第三巻:『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』
第二巻は第一巻以上の成功を収め、その勢いのまま、ローリングさんはようやく専業作家として執筆に専念できるようになりました。
三作目『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』は、ローリングご自身が「もっとも書いていて楽しかった」と語る作品の一つです。しかし、楽しさだけで作品が完成するわけではありませんでした。今回も相当な労力を必要としました。
ローリングは、編集者への手紙の中で次のように述べていました。
「『アズカバンの囚人』は読みすぎて、正直もううんざりしています。編集で、前の二冊をこんなに何度も読み返したことはありませんでした。でも今回はそうせざるを得なかったのです。」
さらに後の手紙では、こう書いていました。
「大幅な書き直しはすべて終わりました。もし追加で削る必要があれば、すぐに対応できる準備はできています……。」
しかし、ここでの苦労は、次に訪れる「本当の試練」の序章にすぎませんでした。彼女はまだ、そのことを知りませんでした。

ローリングの作家としての人生|ハリー・ポッター誕生のリアル
第四巻:『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』
三作目も例外ではなく一年で書き上げられ、世界的ベストセラーとなりました。
しかし、ローリングがその成功を受けて最初に取った行動は、誰も予想できないものでした。
「『アズカバンの囚人』を書き終えた直後、私は四作目の前金を返す話を切り出したんです。みんな本当に驚いていました。『お金は返しますので、自分のペースで四作目を書かせてください』とお願いしたのです。」
実際、『炎のゴブレット』の執筆は彼女を神経衰弱寸前に追い込んでいました。
「あの頃の私は、禁煙ガムを噛みながら、結局また喫煙を再開してしまって……でも禁煙ガムはやめず、両方続けていたんです。夜になると動悸がして、ワインを飲まないと眠れないほどでした。」
世界中が熱狂するシリーズの続編を書き続ける、その想像を超えた重圧が原因でした。
「ハリー・ポッターほどの成功は、もう二度と得られないでしょう。四巻目への期待が爆発的に高まったとき、『これはどこまで進むのだろう』と恐ろしくなりました。その感覚はいまでも消えていません。」
さらに大きな問題は、シリーズで初めて「プロットが破綻した」ことでした。
「最初の三冊では、計画は完璧に機能していました。でも四作目の計画は、本来もっと精密に検証すべきでした。『半分書けた』と思った瞬間、物語の真ん中に大きな穴が空いていることに気づいたんです。『しまった!』という感じでした。締め切りにも二ヶ月遅れましたし、三作目以降で注目度が一気に高まり、外からの圧力もありました。」
この執筆期は、ローリングにとって「作家人生でも最も暗い時期のひとつ」だったといいました。
「クリスマスの頃には、もうどん底でした。『私にできるの?』と自問していました。最後はただの執念、意地でした。何ヶ月もかけて、書いたものをほどいては、新しいルートへ書き直し続けたのです。」
特に悪夢のようだったのが、第9章の書き直しです。
「あの章は本当に嫌いで、『第9章は難しすぎました』という一枚を挟んで、第10章に飛ばしてしまおうかと本気で考えました。」
そして深刻な燃え尽きにも陥りました。
「『炎のゴブレット』は本当に悪夢でした。途中で文字通り話を見失ってしまったんです。自分の決めた締め切りは全く現実的ではなく、それを誰にも言わなかったのは私のミスでした。とにかく突っ走る癖があり、その結果、大ピンチに陥りました。最後は締め切りに間に合わせるために狂ったように書き続け、完全に燃え尽きてしまいました。『また次のハリーをすぐに書くのか』と思ったとき、心の底からうんざりしたのです。10年間書いてきて、初めて『もう続けたくない』と思いました。」

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第五巻:『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』
『炎のゴブレット』で極限のストレスを経験したローリングは、宣言どおり休暇を取りました――少なくとも、ハリー・ポッターから距離を置くという意味ではそうでした。
実際には未刊行の別作品に取り組んでおり、完全な休養とはいえませんでした。
一年のサバティカルを経て、いよいよ第五巻『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』の執筆が始まりました。
第一巻から第四巻までをわずか5年で書き上げたローリングでしたが、四作目でプロット崩壊を経験したことから、今回は締め切りを設けないよう出版社に求めました。出版社もこの要望を受け入れるしかありませんでした。
しかし、締め切りがないからといって、プレッシャーが軽くなるわけではありませんでした。ローリングは後にこう語っていました。
「『不死鳥の騎士団』は、もっと短くできたと思っています。自分でも分かっていたのですが、最後の方は本当に時間と気力が尽きてしまって……。」
870ページにも及ぶ大作を執筆したこの2年間、ローリングは同時に、
- 再婚、
- 第二子の出産、
- 根拠のない盗作訴訟との戦い、
- いくつもの慈善団体の立ち上げ、
- 映画版ハリー・ポッターの監修、
- 絶え間ないPR対応
といった重大な出来事をいくつも抱えていました。
そして何より彼女を疲弊させたのは、「パパラッチ地獄」でした。
作品が「一部の読者に届けば十分」だと思っていた彼女の予想を完全に超え、世界的スターとなったことで、日常のプライバシーは失われてしまいました。
「すべてがあまりに急激に、奇妙なほど変わってしまったのです。私は有名人と接したこともなく、誰に相談すればよいのか分かりませんでした。本当に混乱しました。」
パパラッチはゴミを漁り、生け垣に潜み、自宅前に張り込みました。
さらには学校で、娘のリュックに記者がメモを入れるという非常識な事態まで発生しました。
「5歳の娘の学校が『記者から完全に安全な場所ではなくなった』と知ったときの怒りは、言葉では表せません。」
私生活の崩壊について、ローリングはこう語りました。
「何が起きたのか、自分でも理解できませんでした。おそらく多くの人も、同じ状況であれば理解できなかったと思います。」
その混乱の中でも、世間は次のハリー・ポッターを求め続けました。

ローリングの作家としての人生|ハリー・ポッター誕生のリアル
第六巻:『ハリー・ポッターと謎のプリンス』
第四巻に続き、第五巻の執筆でもローリングは出版記録を次々と更新し、期待を軽々と超えてみせました。しかし、立ち止まる暇はありませんでした。そのまま『謎のプリンス』の執筆へ突入しました。
執筆時、ローリングは第三子を妊娠していましたが、第五巻の頃とは違い、精神的負担は大幅に軽減されていました。むしろ、余裕すら感じさせる発言もありました。
「今の私はとても恵まれています。契約上、もう一冊も書かなくてもよい状況にあります。ですから、六巻と七巻には正式な締め切りがないのです。」
もちろん、彼女はしっかりと第六巻を書き上げました。
「最初から最後まで、本当に書いていて楽しい経験でした。」
一方で、人気が高まるほど批判も増え、ネット上では過激な書き込みまで見られるようになりました。
「自分への殺害予告や、『撃ち殺せ』といった書き込みまで見つけました。」
また、パパラッチ問題は悪化を続けました。子どもが増えたことで外出はさらに難しくなり、「完全に閉じ込められているようで、まるで人質のような気分でした」というほど追い詰められました。
最終的に家を売って引っ越すという決断をし、初期の頃と同じように再び心理療法に依存することになりました。
「私は、作品そのものに注目が集まる『ほどほどの成功を収めた作家』という立ち位置が、一番自分に合っていたのだと思うことがあります。」

ローリングの作家としての人生|ハリー・ポッター誕生のリアル
第七巻:『ハリー・ポッターと死の秘宝』
第六巻が期待を大きく上回る成功を収めたあと、ローリングはすぐさまシリーズ最終巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』の執筆へと取りかかりました。
ただし、この頃の彼女には「作家として書く」以外にも、膨大な責務がのしかかっていました。三人の子どもの母親としての日常、数えきれないインタビュー対応、映画版の監修、運営する複数のチャリティ活動――そのすべてが、執筆の時間を圧迫していたのです。
皮肉なことに、世界的な名声と巨額の富を得たことで、彼女が自由に執筆に充てられる時間は、週5日から週2日半へと半減していました。
「恩知らずに聞こえるかもしれませんが……書く時間と静けさと引き換えに、富の一部を手放せるなら、そうしたいと思ったことが何度もあります。」
メディア対応の負担はむしろ増すばかりで、その疲労は心身に深くのしかかりました。
「名声というのは、とても奇妙で、そして孤立を生む経験です。求める人も多いのでしょうが、私には理解が難しいのです。本当に、とても孤独で、人間関係にも大きな負荷がかかります。」
さらに、メディアはローリングの外見にまで容赦なく踏み込みました。
「有名になった当初、自分の見た目や髪型が【だらしない】と批判される記事を読むのは、とてもつらいことでした。」
こうした外見批判が、自身の娘たちにどんな影響を与えるか――ローリングは深く心配していました。
「【太っている】ことは、本当に人間が持ちうる最悪の特徴なのでしょうか。【意地悪】【嫉妬深い】【浅はか】【虚栄心の塊】【退屈】【残酷】よりも、ですか?
私はそうは思いません。やがて痩せ至上主義の世界を生きていく二人の娘のことを思うと、心配になります。私は彼女たちに、空虚で自意識過剰で、やせ細ったクローンのような存在になってほしくありません。
独立していて、個性的で、理想を持ち、思いやりがあって、意見を持ち、自分らしく、そしてユーモアがある――“痩せている”よりも、はるかに大切なことが山ほどあるのです。」
そんな喧騒のただなかで、ローリングはついに7冊の物語を完結させました。構想からほぼ20年――長い旅路が終わったのです。
「書き終えたとき、人生でただ一度――母が亡くなったときと同じほど――激しく泣きました。抑えようがなかったんです。」

ローリングの作家としての人生|ハリー・ポッター誕生のリアル
💬💬💬 コメント
ローリングの物語を見ると、つい「おとぎ話のような結末」――巨額の成功と世界的名声――だけに注目してしまいがちです。
しかし、本当のインスピレーションは「途中の物語」の中にあります。
貧困、うつ、拒絶、不安、孤独――そうした暗闇の中で、彼女は書くことをやめませんでした。
成功が保証されていたから書いたのではなく、保証など何一つないなかで、自分の内側から湧き上がる衝動だけを頼りに書き続けたのです。
ローリングは「不確かさ」を避けたのではなく、それを引き受け、自分の道として歩み続けました。
わたしたちは、ときに「もっと時間があれば」「もっとお金があれば」「もっと確信があれば」夢を追えるはずだと考えてしまいます。
しかし、人生は待ってはくれません。
与えられているのは、「いま」という時間だけです。
地図も保証もないまま、自分の道を選び、取り組み続ける――
その覚悟こそが、未来を切り開くのだと思います。
オリジナルの英語記事
Rowling’s Life as an Author: What It Was Really Like to Write Harry Potter. https://thefriendlyeditor.com/2015/06/16/rowling-writing-harry-potter/
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