月曜の朝の会議、あるいは親戚の集まりで部屋に入った瞬間、急にどっと疲れが押し寄せてくる……そんな経験はありませんか?
それは肉体的な疲労ではありません。「演じること」への疲れです。
鏡やスマホの画面で自分の顔をチェックし、笑顔を調整する。意見や反論を頭の中でリハーサルする。そして部屋に入り、握手を交わし、台本通りの言葉を口にする。
でも、心の奥底で小さな声がささやきます。
「これは本当の自分じゃない」と。
多くの人はこれを「インポスター症候群」や「人付き合いの疲れ」と呼びますが、実存主義の哲学者たちは、これにもっと具体的で、少し恐ろしい名前をつけました。
それが、**「自己欺瞞(Bad Faith)」**です。
(※原文では “Bad Faith” ですが、哲学用語として一般的な「自己欺瞞」という言葉を使います)
記事の要約
- 自己欺瞞(サルトルの言う “Mauvaise foi“)とは: 自由であることの不安から逃れるために、自分自身に嘘をつくこと。「人間」としての責任よりも、「役割」の快適さを選ぶことです。
- どうやって陥るのか: 自分の自由を否定し(「選択肢なんてない」)、現実を否定し(「世の中そういうものだ」)、自分を「主体」ではなく「客体」として扱うことで起こります。
- その結果: 憤りや虚無感に襲われ、他者と真の意味で繋がったり、愛したりすることができなくなります。
- 「自分らしさ」とは: 利己的な個人主義ではありません。直感を信じ、不確実性を受け入れ、自分の自由が他者の自由と繋がっている(相互存在)と気づくことです。
「自己欺瞞」とは何か?
単に他人によく見られようと「猫をかぶる」ことではありません。自己欺瞞はもっと巧妙で、危険なものです。それは、あまりにも説得力を持って自分自身に嘘をつき、その嘘を自分でも信じ込んでしまうことを指します。
「世間が求める自分」を演じるのが上手になりすぎて、本当の自分が誰だったか忘れてしまう状態です。
この言葉は、ジャン=ポール・サルトルの主著『存在と無』(Being and Nothingness)によって広まりましたが(彼はこれを “mauvaise foi” と呼びました)、概念自体は彼が最初ではありません。そのルーツは、デンマークの神学者セーレン・キルケゴールにまで遡ります。
敬虔なクリスチャンだったキルケゴールは、「群衆」の中に自分を見失うことに対して警鐘を鳴らしました。「群衆」とは、自分で選択する不安を避けるために、みんなと同じことをして安心している状態のことです。サルトルはこの考えをさらに推し進め、自己欺瞞を「自らの自由を否定する自己暗示」と定義しました。
自己欺瞞のパラドックス
自分に嘘をつくためには、同時に二人の人間でなければなりません。「真実を知っている騙す側」と、「嘘を信じる騙される側」です。
- 真実: あなたは自由です。選択肢があり、自分の人生に責任があります。
- 嘘(自己欺瞞): 「選択肢なんてない。世の中そういうものだ。この仕事をするしかない。この関係を続けるしかない。私は環境の被害者だ」

自己欺瞞 悪い信仰(bad faith)
なぜそれが問題なのか?
「別にいいじゃないか。波風を立てずに役割を演じていれば平和なんだから」と思うかもしれません。
なぜ問題なのか。それは、自己欺瞞が**「魂の鎮静剤」**だからです。
実存主義者ガブリエル・マルセルが論じたように、私たちが自分自身を「機能」や「役割」に縮小してしまうと、私たちは「誰か(Who)」であることをやめ、「何か(What)」になってしまいます。つまり、モノになってしまうのです。
ロシアの文豪ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の中で、ゾシマ長老の言葉を通じて、自己欺瞞の末路について背筋が凍るような警告を与えています。
「自分に嘘をつき、自分自身の嘘に耳を傾ける人間は、やがて自分の内部にも周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなる所まで来てしまいます。こうして自分に対しても、他人に対しても尊敬を失うのです。誰をも尊敬しなくなれば、愛することをやめるようになります」
これが自己欺瞞の恐ろしさです。単なる哲学の話ではなく、**「愛する能力」**に関わる問題なのです。
もし自分自身が「本物」でなければ、心から愛することも、愛されることもできません。「自分の人生における幽霊」になってしまうのです。

不誠実
「自己欺瞞」のメカニズム
理性的な人間が、どうして自分の心を騙すことができるのでしょうか?
サルトルは2つの有名な例を挙げて説明しています。
例1:完璧すぎるウェイター
パリのカフェに座っていると想像してください。テーブルの間を行き来する一人のウェイターがいます。
彼の動きはキビキビしていて、少し正確すぎます。客への歩み寄り方も、少し熱心すぎます。声は丁寧すぎ、目は真剣そのもの。まるで綱渡りのような完璧さでトレイのバランスを取っています。
サルトルが指摘するように、彼は**「ウェイターごっこ」**をしているのです。
単に仕事をしているのではなく、仕事そのものになろうとしています。「ウェイター」という役割に完全に同化することで、悩みや夢や不安を持つ「一人の人間」であるという現実に向き合わなくて済むからです。
もし彼がただの「ウェイター」――コーヒーを運ぶ機械、機能、物体――であれば、彼は安全です。モノは実存的危機に陥りません。ロボットは不安を感じません。
仕事の定義の中に自分を閉じ込めることで、彼は自己欺瞞を生きているのです。
例2:デート中の女性
2つ目の例は、初めてのデートをしている女性です。
彼女は、男性の褒め言葉に性的な意図があることを知っています。遅かれ早かれ、彼の誘いを受け入れるか拒絶するか、決断しなければならないことも分かっています。どちらの選択も「主体性」を必要とし、リスクを伴います。
その時、彼が彼女の手を握ります。
手を引っ込めれば拒絶(決定的な行動)になります。握り返せば同意(これも決定的な行動)になります。彼女はどちらの責任も負いたくありません。
そこで、彼女は手をそのままにします。気づかないふりをします。高尚な知的会話を続け、心を体から切り離します。自分の手を、テーブルの上に置かれた単なる「物体」として扱い、自分の意志とは無関係なものとするのです。
彼女は、自分には選ぶ自由がないふりをしています。「私のせいじゃない、ただ勝手に起きていることだ」と言わんばかりに。

実存主義 自己欺瞞
2つの自分
実存主義哲学によれば、私たちは常に現実の2つの側面を行き来しています。
- 事実性(Facticity): 自分の人生の事実。身長、過去、肩書き、銀行口座の残高など。
- 超越(Transcendence): それらの事実を解釈し、変化し、夢を見て、単なるラベル以上の存在になる能力。
自己欺瞞は、一方に隠れるために、もう一方を否定するときに起こります。
- ウェイターは「超越」を否定します。「俺はただのウェイターだ、それだけだ」と、自分の「事実性(肩書き)」になりきろうとします。
- 女性は「事実性」を否定します。自分の身体に起きている現実を無視し、純粋な「超越」の中に漂おうとします。
私たちも毎日これをやっています。「つい子供に怒鳴っちゃうのは、私が短気な家系だから(事実性)」と言い訳する時、私たちは「我慢することを選べる自由(超越)」を否定しています。
人間であることの重荷から逃れるために、自らをモノに変えてしまっているのです。
サルトル 自己欺瞞
現代社会における「自己欺瞞」
サルトルの例は1940年代のパリのものですが、人間の本質は変わっていません。私たちは今も役割を演じ、自己欺瞞の中で生きています。
私自身、かつて働いていた会社の会議室で、そして悲しいことに、自分が属する宗教コミュニティの中でさえ、それを目の当たりにしてきました。
会社の「イエスマン」たち
以前勤めていた会社でのオンライン会議を思い出します。現場の現実とはかけ離れた本社の戦略について、何時間も、時には半日もかけて議論するのです。
画面に並ぶ顔を見ていると、そこは自己欺瞞の教室のようでした。
普段は知的で批判的思考ができる同僚たちが、突然変貌するのです。CEOが言うことすべてに熱心に頷く。「さすがです」「素晴らしい取り組みです」と、当たり障りのない賛辞を送るためだけにミュートを解除する。彼らは「優秀な社員」という役割を完璧に演じていました。
しかし会議が終わった瞬間、仮面が剥がれ落ちます。プライベートチャットが活発になり、さっきまでCEOの「謙虚さ」を称えていた同じ人たちが、今度は彼のエゴを嘲笑します。彼らはその会議を軽蔑していながら、その茶番劇に全力で参加していたのです。
なぜか? そのほうが楽だからです。
声を上げ、戦略に異議を唱え、質問をするには「主体性」が必要です。波風を立てるリスクがあります。
ただ頷く「イエスマン」に自分を縮小することで、彼らはその日の仕事をやり過ごしましたが、尊厳の一部を犠牲にしました。考える人間ではなく、同意する「モノ」になることを選んだのです。
スピリチュアルな逃避
私自身クリスチャンとして、次の例は身につまされるものがあります。宗教コミュニティこそ自己欺瞞の解毒剤であり、徹底的な正直さがある場所だと思うかもしれません。
しかし、現実はそうではありませんでした。
地元のカトリックコミュニティには、信仰を内面的な変容としてではなく、**「人に見せるためのパフォーマンス」**として扱う人たちがいます。
近所に聞こえるような大声でロザリオの祈りを唱え、その直後に配偶者を怒鳴りつけたり、「部外者」の悪口を言ったりする姿を見てきました。
日曜のミサは欠かさないけれど、月曜日には粗悪品を高値で売り続ける経営者もいます。
クリスマスを厳粛な祝いではなく、自撮りと「リア充アピール」のためのイベントとして扱う家族もいます。
これこそキルケゴールが警告した「群衆」です。
彼らは神や信仰を、他人にルールを押し付けるための道具として使い(「それは罪だ」「世も末だ」)、自分の内面を見ようとしません。「敬虔な信者」という役割の陰に隠れているのです。
これは、神聖なものを**「真実から身を守る盾」**として使う、恐ろしい形の自己欺瞞です。
儀式に参加し、正しい言葉を唱えている限り、隣人を「実際に」愛する責任に向き合わなくて済みます。ただルールを守り、外からの承認を求めるだけ。
彼らが「神を見つけられない」のも、不誠実な行動をとり続けるのも無理はありません。自己欺瞞から抜け出せていないのですから。
祈りをささげても心は迷う。私は無に祈っているのか?
セバスチャン・ロドリゴ神父|映画『沈黙 -サイレンス-』

悪い信仰(bad faith)
演出された自分
そして現代において最も一般的な罠が、「デジタル・セルフ」です。
SNSは自己欺瞞の工場です。私たちはプロフィールを作り込みます。それは本当の自分ではなく、「なりたい自分」を編集したエッセンスです。成功や幸せな瞬間だけを投稿します。
やがて、私たちは自分が作り出したアバターの奴隷になります。「自分がどうしたいか」ではなく、「アバターならどうするか」で行動を決めるようになります。
「アバター」が幸せ設定だから、自分の悲しみを否定する。「アバター」が成功している設定だから、自分の葛藤を否定する。
トレイの代わりにスマホを持ったウェイターのように、私たちは演じるのをやめたら自分が消えてしまうのではないかと怯えているのです。
なぜ私たちは自己欺瞞に陥るのか?
なぜ多くの人が、現実よりも仮面を選ぶのでしょうか?
答えはシンプルです。「自分らしくあること(自己欺瞞の逆)」が恐ろしいからです。
自由という重荷
私は確かに『自己欺瞞』のうちに行動する。正直な決断に向き合うことを避け、ただ慣習に従って行動することで、不安を抱えずに済むのだから。
ジョン・マクアリー
サルトルは**「人間は自由の刑に処せられている」**と宣言しました。多くの人は自由を「楽しくて軽いもの」と考えがちですが、真実は違います。自由には、巨大な責任が伴うのです。
自分が自由だと認めることは、自分が責任者だと認めることです。
- 仕事に不満があるのに自由を認めるなら、「その仕事に留まることを選んでいるのは自分だ」と認めなければなりません。
- 人間関係がうまくいっていないのに自由を認めるなら、「現状維持を選んでいるのは自分だ」と認めなければなりません。
この認識は「不安(Angst)」を生みます。この不安から逃れるために、私たちは自己欺瞞に走ります。「私には選択肢がない」と言い聞かせるのです。選択肢がなければ、結果について責められることもないからです。
つまり自己欺瞞とは、責任の重荷から逃れるためのシェルターなのです。
失敗への恐怖:「人生の嘘」
もしもあなたのライフスタイルが他者や環境によって決定されているのなら、責任を転嫁することも可能でしょう。しかし、われわれは自分のライフスタイルを自分で選んでいる。責任の所在は明らかです。
岸見一郎|『嫌われる勇気』
心理学者アルフレッド・アドラーの「個人心理学」も、この点について鋭い指摘をしています。アドラーとサルトルのアプローチは異なりますが、一つの根本的な真理で一致しています。「私たちは過去の犠牲者ではなく、現在の創造者である」ということです。
アドラーは、多くの人が「人生の嘘」を生きていると論じました。トラウマや育ち、あるいは「内気な性格」を盾にするのです。
- 言い訳: 「親が厳しかったから、不景気だから、好きなことができない」
- 隠された目的: 言い訳がある限り、自分の能力を試さなくて済みます。プライドを守れます。挑戦して失敗したら「落第者」になりますが、「できない理由」があるからやらないのであれば、安全圏にいられます。
私たちは、失敗のリスクからエゴを守るために、自己欺瞞の中で生きているのです。
同調という心地よさ
世界中で、真実を語ることほど難しいものはなく、お世辞を言うことほど簡単なものはない。
フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』
世の中は、あらかじめ用意されたルールを私たちに渡したがります。自分の頭で考える負担を取り除いてくれるシステムに囲まれているのです。
- 企業社会: 「成功」とは何かを定義してくれます。自分の価値観を持つ必要はなく、ただKPIを達成すればいいのです。
- 教条的な宗教: しばしば「偽の確実性」を売ります。救済へのチェックリストを提供し、神の神秘と個人的に向き合う苦労を省いてくれます。
- 常識: ただ「普通」であれという圧力です。
「調和」と「同調」の違い
ここで重要な区別をしておきましょう。周りに合わせることが、常に自己欺瞞だとは限りません。
東洋の伝統において「和」は美徳とされます。しかし、**「能動的な調和」と「受動的な同調」**には大きな違いがあります。
- 能動的な調和(誠実): 状況を判断し、コミュニティ全体の利益のために、自分の欲求を譲歩することを「自ら自由に選ぶ」こと。意識的で、主体性があります。
- 受動的な同調(自己欺瞞): 批判されるのが怖いから黙っていること。自分がないから群衆に従うこと。

私たちの多くは、本当に「和」を大切にしているわけではありません。ただ人生を夢遊病のように歩いているだけです。
サルトルに「戦争に行くべきか、母の元に残るべきか」助言を求めた学生のように、私たちは心の奥底で、誰か(先生、上司、聖典、世間のルール)に「どうすべきか」を決めてほしいと願っています。そうすれば、うまくいかなかった時にその人のせいにできるからです。

自己欺瞞の代償
しばらくの間、自己欺瞞はうまく機能するかもしれません。安心感があり、波風も立ちません。しかし、揺らぐ土台の上に頑丈な家を建てることはできません。
意味の喪失
アイデンティティを外部の役割(「この仕事があるから私は成功者だ」「ルールを守っているから私は善人だ」)に結びつけるとき、自分の価値をコントロールできないものに委ねてしまっています。
企業社会でこれを何度も見ました。「規範」に完璧に従い、肩書き、給料、評判を得た人々。しかし市場が変わりリストラされた瞬間、あるいは定年退職した瞬間、彼らは深い危機に陥ります。仕事を失ったからではありません。30年間演じ続けてきた「自分」を失ったからです。
これがいわゆる「中年の危機」の正体です。社会的期待に応えるために生きてきて、ある日ふと気づくのです。「人生の半分を費やして追い求めてきたものは、私にとって何の意味もなかった」と。
表面上は完璧に見えても、中身が空っぽの人生を築いてしまったのです。
ニヒリズムと恨みのリスク
ドストエフスキーは、「自分に嘘をつく人間は、最終的にあらゆることに腹を立てるようになる」と警告しました。
なぜか? 自己欺瞞は深い「恨み」を生むからです。
家族や職場でよく見る「殉教者」タイプの人を思い出してください。「あなたのために全てを犠牲にしたのに!」「やるべきことはやったのに!」と言う人々です。
- 世俗的な例: 情熱からではなく、恐怖や義務感から毎晩残業し、誰にも褒められないと怒りを募らせる社員。
- 宗教的な例: 『放蕩息子』の兄。父への愛からではなく義務感からルールを守り、奔放な弟が歓迎されて戻ってきた時に激怒する。
これらは不誠実さ(Inauthenticity)の結果です。本心ではないのに無理をして「いい人」や「義務に忠実な人」を演じているとき、親切にしているわけではありません。「私はこの役割を演じて苦しんでいるのだから、世界は私に報酬を払うべきだ」という取引をしているだけです。
そして当然、期待した見返りが得られないとき、心は苦々しさで満たされます。
人との繋がりの喪失
世界は欺かれることを望んでいる。真実は複雑で恐ろしい。真実の味わいは「身につけねばならない味」であり、それを身につける者は少ない。
マルティン・ブーバー『我と汝』
おそらく最も悲しい代償は、本当の愛が不可能になることでしょう。
誰かを愛するためには、自分自身が「汝(Thou)」――生身の、傷つきやすい主体――として、相手という「汝」と繋がらなければなりません。しかし自己欺瞞の中にいるとき、自分を「モノ」に変えてしまっています。モノは愛することができません。ただ使われるだけです。
「強い男」という役割を演じ、弱さを見せることを拒否すれば、パートナーに愛されるチャンスを失います。パートナーはあなたではなく、そのパフォーマンスを愛していることになるからです。
「完璧な信者」を演じていれば、自分の苦しみをコミュニティに打ち明けることはできません。
結果として残るのは孤独です。称賛してくれる人々に囲まれていても、自分は透明人間のように感じてしまうのです。
心理学者ロロ・メイが論じたように、勇気の対義語は臆病ではなく、**「同調」**です。そして同調の代償は、他者と深く繋がる能力の喪失なのです。

悪い信仰(bad faith)
自己欺瞞から「本当の自分」へ:西洋的個人主義を超えて
「自分らしさ(Authenticity)」と言うと、仕事を辞め、社会に背を向け、自分のやりたいことだけをやる反抗的な西洋人をイメージするかもしれません。
しかし、それは誤解だと思います。
本当の自分らしさは、利己的な個人主義とは違います。世界との絆を断ち切ることではありません。
西洋の実存主義者も東洋の哲学者も、一つの真理で一致しています。
**「人は一人では自由になれない」**ということです。
曖昧さの倫理
サルトルのパートナーであったシモーヌ・ド・ボーヴォワールは、『曖昧さの倫理』(The Ethics of Ambiguity)の中でこう論じました。
「自分自身を自由であろうとすることは、他者の自由を願うことでもある」
彼女の論理は実践的です。もし他人をモノとして扱い、操作し、無視し、抑圧すれば、「モノの世界」を作り出すことになります。やがてその世界は、自分自身をも押しつぶすでしょう。
だからこそ、自分自身が本物であるということは、他者のあり方と分かち難く結びついているのです。
他人の気持ちを考えずに思ったことを口にし、「自分に正直なだけだ」と言うのは、自分らしいのではありません。ただのナルシストです。目の前の相手の人間性を否定しているのですから。
それは「正直さ」に変装した自己欺瞞に過ぎません。
繋がりの中にある自己
ボーヴォワールの視点を取り入れるなら、自分らしさとは**「相互存在(Interbeing)」**としての自己を認識することです。人間は真空の中にぽつんと置かれた個体ではなく、互いに繋がりあって存在(Inter-be)しているのです。
この点を理解するために、**「桜梅桃李(おうばいとうり)」**という言葉を思い出してみましょう。
桜、梅、桃、李(すもも)。それぞれの木は、それぞれの時期に、それぞれの香りで、独自の花を咲かせます。桜は梅になろうとしません。桃を羨んだりしません。ただ自分自身であろうとします。
そして重要なのは、これらの木々はすべて同じ森で育っているということです。同じ土、同じ空気、同じ生態系の中にいます。
多くの人は「調和」を「画一性」と混同しています。みんなが同じ振る舞いをすることが調和だと思っています(これは自己欺瞞です)。
しかし本当の調和とは、オーケストラのようなものです。バイオリンはバイオリンの音を、フルートはフルートの音を出さなければなりません。もしバイオリンがフルートの音を出そうとしたら、音楽は台無しです。
「他者」と共に生きる存在
選択をする際、私たちは他者の自由を尊重しなければならない。私は自らの自由を望むと同時に、他者の自由をも望む義務がある。他者の自由を目標とせずに、自らの自由を目標とすることはできない。
ジャン=ポール・サルトル
したがって、本物の「自分らしさ」とは、唯一無二の「我」である責任を引き受けながら、同時に常に「汝」との関係の中で生きていると認めることです。
実存主義者ガブリエル・マルセルが指摘したように、そのとき私たちは孤立した「我」から、「他者と共に生きる我」へと移行します。
あるいは、いわゆる「黄金律」が示唆するように、**「私があなたをどう扱うかは、私が誰であるかを映し出す鏡」**なのです。
わかりやすく比較してみましょう。
- 不誠実:
「本当は嫌だけど、親が望むから医者になる」
(集団のために「個」を犠牲にしている状態) - 利己的:
「『自分探し』が必要だから、仕事を辞めて家族も捨てる」
(「個」のために集団を犠牲にしている状態) - 誠実:
「心が伴わないままでは良い医者になれないと気づいた。無理に留まれば、私は苦々しい思いを抱え、結果として患者や家族を傷つけてしまうだろう。だから、心からベストを尽くして世界に貢献できる、別の道を選ぶ」
結論として、自分らしさとは「好き勝手にやること」ではありません。
そうではなく、自分が世界の「幸福で意味のある一部」になれるような、独自の道を見つける勇気のことなのです。
私たちが自由に行動できるとき、人間を「ただの肉体」とみなす孤立した視点から、「存在の中の一存在」として他者と関わる主体へと移行できる。
ガブリエル・マルセル

どうすれば自己欺瞞をやめられるか?
主体性を取り戻す
人間は自分の自由を否定するために、常に言い訳を探しています。「会議に出なきゃいけない」「結婚生活を続けなきゃいけない」「内向的だからこう振る舞わなきゃいけない」。
「〜しなければならない」と言うたびに、外部の力にコントロールされる「モノ」のふりをしています。
もしそう感じたら、言葉を変えてみてください。「〜しなければならない」を**「〜することを選ぶ」**に。
- ×「退屈な家族の夕食会に行かなきゃいけない」(被害者意識)
- ○「私は夕食会に行くことを選ぶ。なぜなら、会自体は退屈でも、母との関係を大切にしたいからだ」(主体的選択)
これは微細な意識の変化ですが、主体性を取り戻す出発点になります。風に吹かれる木の葉ではなく、どこに着地するかを決める存在なのだと思い出すのです。
精神科医ヴィクトール・フランクルが指摘したように、最悪の状況下であっても、人間には究極の自由が残されています。**「自分の態度を選ぶ自由」**です。
鏡のテスト
多くの人は、内面の空虚さを隠すために「役割」を利用します。「私は社長だから/アーティストだから/母だから、価値がある」と。
この悪癖を断つ一つの方法は、鏡の前に立ち、自分にこう問いかけることです。
「もし今日、仕事も、人間関係も、社会的地位も、銀行口座も失ったら……ここに立っているのは誰だろう?」
もし答えが「誰もいない」や「分からない」なら、自己欺瞞を生きています。
自分らしさは、魂を履歴書から切り離せたときに始まります。あなたは「ウェイター」や「マネージャー」ではありません。現在その仕事をしている「人間」なのです。
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不確実性を受け入れる
自己欺瞞は、「偽の確実性」への欲求から生まれます。政治的イデオロギーや宗教的ドグマ、企業のマニュアルが提供する白黒はっきりした答えを好みます。「ルールに従えば安全だ」と。
これを克服するには、健全な懐疑心、つまり**「哲学者のように考える」**習慣を持つことです。
- 政治家が「これしか道はない」と言ったら、「本当に?」と問う。
- 宗教指導者が「神はこう望んでいる」と言ったら、「神が? それとも教団が?」と問う。
- 世間が「家を持ってこそ一人前」と言ったら、「誰が決めたの?」と問う。
自分で経験する前に、即座に受け入れないこと。それが慈悲や明晰さを育むなら採用し、そうでなければ、どんなに権威あるソースでも手放しましょう。
伝聞、伝統、経典、推論、慣習、権威……いかなるものにも盲従してはならない。
それが善く、咎められることなく、賢者に称賛され、幸福と安寧へ導くと自ら知ったとき、そこに従い、そこに留まるべきである。カーラーマスッタ
直感を信じる(信仰への跳躍)
論理は安全のためには素晴らしい道具ですが、自分らしさに関しては役に立たないことが多いです。論理はたいてい、「安全だから」という理由で、自己欺瞞の状況に留まるよう説得してきます。
ここで必要なのが、キルケゴールの言う**「信仰への跳躍(Leap of Faith)」です。
これは宗教的な意味以上に、「事実」よりも「自分の直感」を信じる行為**を指します。情熱の追求は、表面上は非合理に見えるものです。
私が安定した会社員生活を捨ててこのブログを始めたとき、理性は叫びました。「年金を捨てるのか? 出世コースを捨てるのか? 何者でもなくなるぞ」と。
もし「常識」に耳を傾けていたら、私はまだあのオフィスで画面に向かって頷きながら、毎日少しずつ心を死なせていたでしょう。しかし私は、銀行口座の数字よりも、腹の底にある「何かが間違っている」という感覚のほうが真実だと信じました。
誠実に生きるには、結果が保証されていない決断を下す意志が必要です(もちろん、よく考えた上での話です。無謀な生き方を勧めているわけではありません)。
「成功すると分かっているから」やるのではなく、**「挑戦しなければ自分自身と生きていけないと分かっているから」**やるのです。
愛することを選ぶ
【哲人】人は、いまこの瞬間から幸せになれます。しかし、幸せは「今いる場所にとどまったまま」得られるものではありません。
あなたはすでに一歩踏み出しました。大きな一歩です。でも今、勇気を失い、立ち止まり、そして後ろを振り返ろうとしている。なぜか、わかりますか?
【青年】僕には忍耐が足りないってことですか?
【哲人】違います。まだ、「人生最大の選択」をしていないだけです。
【青年】人生最大の選択? それって何ですか?
【哲人】さっき言ったでしょう。それは「愛」です。
【青年】……そんな抽象的な話で逃げないでくださいよ!
【哲人】私は本気です。あなたがいま抱えている問題のすべて——教育のことも、どんな人生を歩むべきかという悩みも——その根っこにあるのは、すべて「愛」というたった一つの言葉なのです。
岸見一郎|『幸せになる勇気』
声を大にして言いたいのは、自己欺瞞に対する究極の解毒剤は「愛」だということです。
結局のところ、人生の悩みのほとんどは対人関係であり、その解決策は愛する勇気です。
自己欺瞞は防衛メカニズムです。傷ついたり、裁かれたり、拒絶されたりすることから自分を守るために仮面を被るのです。
- 自分を愛するとは、自分が不完全であることを認め、それを隠そうとしないことです。
- 他者を愛するとは、相手を自分の望む姿ではなく、あるがままの姿で関わることです。
もし自分を愛せなければ――常に「誰か」になろうとしていれば――他人が自分を愛してくれるとは信じられません。「彼らは仮面を愛しているだけで、私を愛しているわけではない」と思い続けることになります。
自分らしさとは、仮面を外す行為です。世界に対し、神仏に対し、自分に対し、そして愛する人に対し、こう言うことです。
「ここに私がいます。仮面はありません。ただの私です」
それは恐ろしいことです。でも、それこそが本当に「生きる」唯一の方法なのです。

自己欺瞞 直し方
おわりに
世界は常に「他の誰か」になるよう要求してきます。その中で、自己欺瞞に陥るのは理解できる選択であり、私たち全員がやっていることです。
言うべき時に沈黙したり、正直になるのが怖くて言い訳に隠れたりする瞬間は、誰にでもあります。
しかし、不誠実であることの代償が大きすぎて、耐えられなくなる時が必ず来ます。
自己欺瞞をやめることは、理由なき反逆者になることではありません。
それは、キルケゴールが言う「信仰の騎士」(Knight of Faith)になるようなものです。つまり、無限なるもの(確固たる内面の基盤)に深く根を下ろしながら、有限な人生の細部(美味しい食事、会話、仕事)を世界の中で十分に楽しむ人になることです。
彼らは自分が誰かを知るために、観客の拍手を必要としません。
結局、自己欺瞞をやめるとは、自分の存在に対する責任を引き受けるということです。「受け継いだ信念」から「本物の確信」へと移行することです。
スーフィズムの詩人ルーミーはこう書きました。
「私は寺院、教会、モスクを探し回った。しかし、私は自分の心の中に神を見つけた」
神仏を信じるか、人間の精神を信じるかに関わらず、教訓は同じです。
真実は、建物の中にも、企業のマニュアルにも、SNSのアルゴリズムの中にもありません。 ルールに盲従しても見つかりません。
「外側」に答えを求めるのをやめ、「内側」の声に耳を傾け始める必要があります。
自分らしさとは、最終的に「自分を見つけて」終わりという静的なゴールではありません。それはプロセスです。世界から隠れるのではなく、世界と関わり続けることです。信念と行動のギャップを埋めていくことです。
最後に、故教皇フランシスコの言葉を引用します。
「キリストをおとぎ話の中に閉じ込めてはなりません。古代の英雄にしたり、博物館の彫像だと思ってはなりません! ……行動を起こさなければなりません。人生の中で彼を探しなさい。兄弟姉妹の顔の中に、日々の仕事の中に……墓の中以外のあらゆる場所に、彼を探しなさい」
世俗的な表現に置き換えるなら、こう言えるでしょう。
死んだもの――肩書きや過去の栄光――の中に意味を探してはいけません。生きているものの中に意味を探してください。
日々の親切な行いの中に、正直であることの中に、仮面をつけずに誰かと向き合うことの中に、それを探してください。
扉は開いています。実のところ、扉はずっと開いていたのです。
ウェイターやマネージャー、あるいは完璧な信者の役を演じ続け、安全に一生を終えることもできます。
あるいは、一歩踏み出すこともできます。
「モノ」ではなく「存在(Being)」として生きる責任を引き受けることもできます。
選ぶのは、あなた自身です。
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