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人間の本性は善か悪か?善悪の二元論を超えて

人間の本性は善か悪か?善悪の二元論を超えて
目次

「人間の本性は善か悪か?」

何事もない日常を送っているときに、こんな問いをわざわざ考えることは、そう多くありません。

恋に落ちているときも、誰かと笑い合っているときも、見知らぬ人が高齢者の横断を手助けする姿を目にしたときも、人間の本性について深く考えることはあまりないものです。人間は根本的に善なのか、悪なのか。その問いが、純粋な好奇心から生まれることはほとんどありません。

たいていは、何かに傷ついたときに生まれます。

心から信頼していた相手が嘘をついていたと知ったのかもしれません。別れたばかりで、気持ちの整理もつかないのかもしれません。近所の人が誰かに残酷な仕打ちをするのを目撃したのかもしれません。あるいは、世界各地で起きる悲惨な出来事が次々と流れてくるニュースを眺めているうちに、人間そのものに失望してしまったのかもしれません。

どんなきっかけであれ、この問いに本気で向き合うなら、まず避けて通れない問題があります。それは、「善」や「悪」とは、そもそも何を意味するのか、ということです。もっと言えば、日々の暮らしの中で、私たちは何を「善」と呼び、何を「悪」と見なしているのでしょうか。

私たちの道徳的な判断は、思いのほか、自分にとって得か損かという尺度に左右されがちです。

たとえば、自然界の生き物について考えてみましょう。ミツバチは花の受粉を助け、蜂蜜をもたらしてくれるため、「よい存在」として好意的に見られます。一方、刺してくるハチは「危険な存在」や「悪い虫」として嫌われがちです。

けれど、実際には、どちらの虫も善でも悪でもありません。ただ、それぞれの生物としての仕組みに従い、生き延びようとしているだけです。

人間同士でも、同じことが起きています。

日常の中で「善」と呼ばれるものの多くは、実のところ、自分に利益をもたらしてくれるものです。反対に「悪」と呼ばれるものも、自分を傷つけたり、不快な思いをさせたりするものにすぎない場合があります。

もちろん、人間の善悪をすべて損得勘定で説明できるわけではありません。それでも、自分にとって都合がよいかどうかという基準が、物事の見方を左右していることは少なくないでしょう。

人間の本性を本当に理解したいのであれば、こうした損得勘定からいったん距離を置く必要があります。善か悪か、白か黒かという単純な二分法を超え、人間が実際にはどのような存在なのか、その複雑な姿に目を向けてみたいと思います。

📌 記事の要約

  • 「人間は本質的に悪なのか」という問いの背景には、傷ついた心があるのかもしれません。 信頼を裏切られたり、世の中は公平であるはずだという感覚が揺らいだりしたとき、人間そのものを疑うことで、心の痛みを和らげようとすることがあります。
  • 私たちの「善悪」の基準は、自分中心の損得勘定に左右されがちです。 自分に利益をもたらすものを「善」、害や不快感をもたらすものを「悪」と見なしてしまうことがあります。
  • 人間の本性をめぐる問いは、東洋・西洋の思想家たちによって長く議論されてきました。 一方、現代の発達心理学や社会学の研究からは、人間には他者と協力し、助け合おうとする傾向が備わっていることも見えてきています。
  • 「悪」は、特別に残酷な人間だけのものではありません。 周囲への盲目的な服従や集団心理に流されたり、自分の中の暗い側面を無理に抑え込もうとしたりすることで、ごく普通の人がひどく残酷な行為に及ぶこともあります。
  • 善悪の二元論を超えるには、人の過ちをただ「悪」と決めつけるのではなく、その背景にも目を向ける必要があります。 トラウマや無知など、人の行動に影響を与えているものを理解しようとすることが、人間の本性をより深く見つめる手がかりになります。

なぜ「人間は善か悪か」と問いたくなるのか

人間は根本的に欠陥のある存在なのではないか。そう考えるきっかけには、大きく分けて二つあるように思います。悲惨なニュースを目にしたとき、そして、身近な人に裏切られたときです。

不思議なことに、私たちを本当の意味で実存的な迷いへと追い込むのは、後者であることが少なくありません。

なぜでしょうか。

それは、自分との心理的な距離の近さと、自分自身が直接巻き込まれているという感覚に関係しています。

テレビで戦争や悲劇を目にしても、私たちはそれをある程度、日常生活とは切り離して受け止めることができます。戦争や企業の不祥事も、例外的な出来事として片づけたり、自分とは無関係な悪人たちが起こした問題として理解したりすることができます。

ところが、愛する人に裏切られた場合は話が違います。パートナーの浮気、友人による陰口、家族からの裏切り。こうした出来事は、身近な人との関係だけでなく、これまで当たり前だと思っていた日常そのものを揺るがします。

本来なら安心できるはずの場所が、突然、信頼できない場所へと変わってしまうのです。

そうなると、ひとつの疑問が頭をよぎります。

「そもそも、人間という生き物は信用できない存在なのではないか」と。

正義が裏切られたと感じるとき

身近な人から裏切られるとき、心の中では深刻な揺らぎが起こります。その背景にあるのが、心理学でいう「公正世界仮説」です。

私たちには、世界は基本的に公正な場所であってほしい、という思いがあります。誠実に人と向き合い、他者を大切にし、嘘をつかずに生きていれば、いつか自分も同じように扱ってもらえる。そんな期待を、意識していなくても抱いているものです。

だからこそ、大切な人が自分を傷つけることを選んだとき、深い混乱が生まれます。自分が信じてきた世界のあり方と、実際に起きたことが食い違ってしまうからです。心理学では、こうした認識の食い違いを「認知的不協和」と呼びます。

傷ついた心は、この矛盾を何とか理解し、受け止めようとします。その過程で、次のような心理的な防衛反応が働くことがあります。

  • 知性化

悲しみや怒りは、ときに自分でも扱いきれないほど複雑で、激しい感情です。その苦しさに飲み込まれないよう、私たちは個人的な痛みを、もっと抽象的で普遍的な問題へと置き換えることがあります。

たとえば、「なぜ、こんなに苦しいのだろう」という問いを、「人間は本質的に悪なのだろうか」という問いへとすり替えるのです。

こうすることで、知性を使って感情から距離を置き、心を落ち着かせようとします。いわば、考えることによって痛みを麻痺させるようなものです。

「人間なんて、結局はそういう生き物なのだ」と結論づけるほうが、「自分のことをよく知っている大切な人が、わかったうえで自分を傷つけることを選んだ」という現実に向き合うよりも、受け入れやすいのかもしれません。

  • 白黒思考

人間の矛盾を受け止めることは、簡単ではありません。善良な人がひどいことをする場合もあれば、欠点だらけの人が思いがけない優しさを見せる場合もあります。

それでも、そうした複雑さを抱えきれないとき、私たちは人を「善人」か「悪人」か、どちらか一方に分類しようとします。

人間を白か黒かで分けてしまえば、少なくとも判断に迷わずに済みます。けれど、そのわかりやすさの代わりに、人間の持つ矛盾や多面性を見落としてしまうことにもなります。

  • 投影

裏切られたとき、「自分に何か悪いところがあったのだろうか」「あの人を信じた自分が愚かだったのだろうか」と、自分を責めてしまうこともあります。

一方で、そうした苦しさから逃れるために、問題の原因を自分の外側に求めることもあります。

その結果、個人との関係で起きた出来事が、いつの間にか人類全体の問題へとすり替わってしまいます。

「なぜ、あの人は自分を傷つけたのか」という問いが、「人間という生き物は、いったい何がおかしいのだろう」という問いへと変わるのです。

こうして考えれば、裏切りをきっかけに人間の本性を疑うようになるのは、単なる悲観主義とは言い切れません。傷ついた心が、理解しがたい現実に何とか意味を与えようとしているのかもしれません。

シニシズムという心の盾

「人間の残虐さを、獣のような残虐さと呼ぶことがある。だが、それは獣に対する大きな不公平であり、侮辱でもある。獣は人間のように残酷にはなれない。あれほど巧妙に、芸術的なまでに残酷になることはできないのだ。虎にできるのは、ただ引き裂き、かみ砕くことだけだ。それ以上のことはできない。たとえできたとしても、人間を耳で釘づけにしようなどとは、決して思いつかないだろう。」

— フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

何度も傷つく経験をすると、「人間は本質的に利己的で、信用できない存在だ」という考え方に傾いていくことがあります。

けれど、少し掘り下げてみると、それは必ずしも心の底から信じている信念ではないのかもしれません。

むしろ、かつて人や世界に期待していたからこそ、その期待によって傷つくことを恐れるようになった。そんな、傷ついた理想主義者の防衛反応とも考えられます。

「もう二度と、同じ思いはしたくない。」

そんな決意が、人間不信という形を取っているのです。

あらかじめ誰もが利己的だと思っていれば、裏切られても驚かずに済みます。誰かに失望することも、信じた自分を愚かに感じることも、少なくなるかもしれません。

他人に対する期待を手放すことで、少なくとも、これ以上傷つくことを避けられるような気がするのです。

ただし、そこには代償もあります。

後の章で詳しく見ていきますが、人間には他者と協力し、助け合おうとする傾向も備わっています。見知らぬ人のためにドアを押さえておく、誰かが落とした財布を拾って届ける。そんな小さな親切は、必ずしも深く考え抜いた末に生まれるものではありません。ごく自然に、反射的に行われることもあります。

一方で、世の中は悪意に満ちていると考え続けるには、絶えず周囲を警戒し、相手の行動の裏を読み、期待を抱かないように自分を抑えなければなりません。

人とのつながりを求める性質を持ちながら、人間を信じないように努力し続ける。そこには、少なからず無理が生じます。

そのため、どれほど人間不信が強くなっても、誰かの親切に触れる瞬間は訪れます。

そんなとき、自分の人間観と目の前の出来事が食い違うと、私たちはその矛盾を解消しようとすることがあります。心理学でいう「サブタイプ化(subtyping)」も、その一例です。自分の信念に合わない事例を、例外として扱うことで、もともとの考え方を維持しようとするのです。

たとえば、誰かが見返りを求めずに助けてくれたとしても、こんなふうに考えるかもしれません。

「きっと、何か後ろめたいことがあったから助けてくれたのだろう。」

あるいは、こんな言葉で片づけてしまうこともあるでしょう。

「動物は純粋だけれど、人間はどうしようもない。」

目の前の親切を素直に受け止めてしまえば、人間への警戒心を緩めなければならなくなります。もう一度期待して、また傷つく可能性も出てきます。

だからこそ、例外は例外のままにしておく。そうすることで、人を信じたいという気持ちが心のどこかに残っていたとしても、再び傷つかないように身構えていられるのです。

皮肉なことに、人間不信という心の盾は、かつて人間を信じていた気持ちの名残なのかもしれません。

その問いの奥にあるもの

ここで、ひとつ考えてみたいことがあります。

たとえ「もう人間なんて信じられない」と感じていたとしても、それでもなお「人間の本性は善なのか、悪なのか」と問い続けているのなら、心のどこかでは、まだ答えを探しているのではないでしょうか。

この問いの奥には、もう一度傷を癒やしたいという願いや、誰かを再び信じたいという気持ち、そして、自分自身はこれからも誠実に生きていきたいという思いが隠れているのかもしれません。

本当に、人間は例外なく悪であり、誰も信頼するに値しないと確信していたら、そもそもこの問いについて考える必要もないはずです。

誰とも関わらず、他人に期待することもやめ、心の扉を閉ざしてしまえば済む話だからです。

それでも、この問いが頭を離れない。

その背景には、人間という存在を完全には見限れない気持ちが、まだ残っているのではないでしょうか。

人間の善を信じたい。もう一度、誰かとつながりたい。傷つく可能性があるとしても、できることなら、世界に対する信頼を取り戻したい。

そんな思いが、問いの奥にひっそりと息づいているのかもしれません。

人間の本性について問い続けることは、もしかすると、人間への希望をまだ手放していない証しなのです。

実存的危機

人間の本性は善か悪か?哲学が向き合ってきた問い

人間はどこか根本的に壊れているのではないか。そんな疑問を抱いたことがあるなら、決して一人ではありません。人間の本性とは何なのか。この問いには、何千年もの間、歴史に名を残す思想家たちも向き合ってきました。

人間は生まれながらにして利己的で、社会の中で規律を身につける必要があるのか。それとも、本来は純粋で善良な存在なのに、成長するにつれて周囲の環境によって堕落してしまうのか。

歴史を振り返ると、人間の本性をめぐる議論は、大きくこの二つの立場に分かれてきました。

西洋思想:ホッブズとルソー

西洋哲学におけるこの論争を代表する思想家として、トマス・ホッブズとジャン=ジャック・ルソーが挙げられます。

  • ホッブズ:人間は本質的に利己的である

17世紀の哲学者ホッブズは、人間は本質的に利己的な存在だと考えました。

ホッブズによれば、法律も文明も存在しない「自然状態」において、人間の暮らしは惨めで、粗暴なものになります。誰もが自分の利益や安全を優先し、互いに争うことになるからです。

人間は、いわば本能に突き動かされる野性的な生き物です。そうした人間が互いを傷つけ合わずに暮らせるのは、社会という枠組みが存在するからだ、とホッブズは考えました。法律や社会制度が、人間の中にある恐怖やプライドを抑え込み、無秩序な争いを防いでいるというわけです。

  • ルソー:人間は本来、共感的で平和な存在である

それから約100年後、ルソーはホッブズとは対照的な見方を示しました。

ルソーは、人間は本来、他者への共感を持ち、平和に生きることのできる存在だと考えました。彼が描いたのは、文明社会が成立する以前、自然と調和しながら暮らす「高貴な野蛮人」という人間像です。

ところが、文明の発達や私有財産の成立、社会的不平等の拡大によって、人間が本来持っていた穏やかな性質は損なわれていったと考えました。

つまり、ホッブズが社会を人間の本性を抑えるための仕組みと見たのに対し、ルソーは、むしろ社会のあり方こそが人間を堕落させる要因になり得ると考えたのです。

同じ人間を見つめながら、一方は文明による抑制の必要性を説き、もう一方は文明そのものがもたらす弊害に目を向けました。

ホッブズとルソー

東洋思想:孟子と荀子

西洋で啓蒙思想が広まるはるか以前から、古代中国でも、人間の本性は善なのか悪なのかという問いが論じられていました。その代表的な論争が、孟子と荀子の間に見られます。

  • 孟子:人間の本性は善である

紀元前4世紀ごろの思想家である孟子は、「性善説」を唱えました。

孟子によれば、人間は生まれながらにして善の芽を備えています。たとえば、困っている人を見れば思わず助けたくなる気持ちや、不正を目にしたときに感じる憤りなど、他者を思いやり、正しいことを求める心は、人間に本来備わっているものだと考えました。

ただし、善の芽があるからといって、誰もが自然に立派な人間へと成長するわけではありません。

植物の芽が育つために水や光が必要なように、人間の中にある善性も、適切な環境や学びによって育まれていく必要があります。放っておけば、せっかくの芽も成長できず、やがて枯れてしまうかもしれません。

  • 荀子:人間の本性は悪である

それから約1世紀後、荀子は孟子とは反対に、「性悪説」を唱えました。

荀子によれば、人間は生まれながらにして欲望を持ち、自分の利益を求める存在です。それぞれが自分の欲求のままに行動すれば、争いや混乱が生じるのは避けられません。

荀子にとって、善良さとは生まれつき備わっているものではなく、教育や礼儀、社会の規範や法律などを通じて身につけていくものです。

たとえば、曲がった木材を蒸気で柔らかくし、圧力をかけてまっすぐな弓に仕立てるように、人間もまた、学びや規律によって欲望を整え、望ましいあり方へと導かれる必要があると考えました。

孟子が人間の内にある善の可能性を育てることを重視したのに対し、荀子は、教育や社会的な規範によって人間を形づくることを重視したのです。

孟子と荀子 人間の本性は善か悪か

人間の本性は善か悪か?

神学から見た人間の本性

人間の本性をめぐる問いは、哲学だけのものではありません。宗教もまた、人間はどのような存在なのか、なぜ善を求めながら悪を行ってしまうのか、という問題に向き合ってきました。

  • キリスト教:原罪と自由意志

初期キリスト教では、アウグスティヌスとペラギウスの間で、人間の本性と罪をめぐる論争が繰り広げられました。

最終的にはアウグスティヌスの立場が教会の教義に大きな影響を与え、「原罪」の教えが確立されていきます。原罪とは、人間は最初の罪の影響を受けた存在として生まれ、自らの力だけで完全な善を実現することはできず、神の恩寵を必要とする、という考え方です。

一方、ペラギウスは、人間は生まれながらに罪を背負っているわけではなく、自らの意志によって善悪を選択できると主張しました。人間が罪を犯すのは、周囲の社会にある悪い手本をまねるからであり、必ずしも人間の本性そのものに原因があるわけではない、という立場です。

この考え方は教会から異端とされ、ペラギウスの立場は退けられることになりました。

ここにも、善悪の問題をめぐる二つの見方が表れています。人間は根本的に不完全な存在であり、神の助けを必要とするのか。それとも、自らの自由意志によって善を選び取ることができるのか、という問いです。

  • イスラム教:フィトラとナフス

イスラム神学には、人間の本性を考えるうえで興味深い見方があります。

それが、「フィトラ(fitrah)」と「ナフス(nafs)」という概念です。

フィトラとは、人間が生まれながらに備えている本来の性質を指し、神と調和した純粋な状態として理解されます。この考え方に立てば、人間は本来、善や真理へと向かう可能性を備えた存在です。

一方、ナフスは、自我や欲望に関わる概念です。文脈によって意味は異なりますが、自分の利益を優先する気持ちや、目先の快楽、低次の欲望へと傾く心を指すこともあります。

つまり、人間には本来、善へと向かう性質がある一方で、自我や欲望に引き寄せられ、道を見失ってしまう危うさもあるということです。

善を求める心と、利己的な欲望との間で揺れ動くこと。それ自体が、人間として生きるうえでの試練なのかもしれません。

「善か悪か」という問いに潜む落とし穴

ここまで見てきたさまざまな考え方を踏まえると、ひとつの疑問が浮かびます。

結局のところ、正しかったのは誰なのでしょうか。

個人的には、どちらの立場にも一理あると思います。ただ、それ以上に気になるのは、そもそも人間の本性を「善か悪か」という二択で捉えようとすること自体に、限界があるのではないか、という点です。

歴史上、多くの思想家は、意識的かどうかは別として、人間をあらかじめ決められたプログラムのように捉えてきたとも言えます。生まれつき利己的で、放っておけば悪に走る存在なのか。それとも、自然と善を選ぶ存在なのか。まるで人間の行動が、最初からどちらか一方に設定されているかのようです。

けれど、自然界はそれほど単純ではありません。

水を思い浮かべてみてください。水は、生まれながらにして氷という固体でもなければ、必ず水蒸気になるものでもありません。周囲の温度などの条件によって、液体にも、氷にも、水蒸気にもなります。

人間の本性も、それに似ているのではないでしょうか。

私たちには、生物としてさまざまな行動を取る可能性が備わっています。自分の利益を優先することもあれば、他者を思いやり、見返りを求めずに助けることもあります。どちらか一方だけが、常に表に現れるわけではありません。

そして、どのような行動が引き出されるかには、育った環境や周囲の人々との関係、そのとき置かれている状況などが大きく関わっています。

だからこそ、人間は生まれながらにして100%善なのか、それとも100%悪なのか、という問いだけでは十分ではありません。

大切なのは、人間の内にあるさまざまな可能性を認めたうえで、どのような条件や環境が、思いやりや協力を引き出し、反対に、残酷さや利己心を引き出すのかを理解することではないでしょうか。

人間の本性を理解するためには、善か悪かという答えを急ぐよりも、その両方が人間の中に存在し得るという事実から出発する必要があるのかもしれません。

科学から見えてくる人間の本性

何世紀もの間、人間の本性を理解するには、哲学者や神学者たちの考察に頼るしかありませんでした。しかし、現代では、必ずしも推測だけに頼る必要はなくなっています。(もちろん、すべてが明らかになったわけではありません)

発達心理学や進化心理学の発展によって、社会や文化の影響を強く受ける前の人間が、どのような性質を備えているのかを調べる手段が生まれました。そして、そこで得られた知見は、「人間は本質的に利己的で、信用できない存在だ」という悲観的な人間観に、一石を投じています。

人間には生まれながらにして善悪を判断する感覚が備わっているのでしょうか。それとも、人間は「タブラ・ラサ(白紙)」、つまり、生まれたときには何も書き込まれておらず、その後の環境によって形づくられる存在なのでしょうか。

この問いに答えるため、研究者たちが注目したのは、文化や法律、罰への恐れなどの影響をまだほとんど受けていない人間、つまり赤ちゃんでした。

赤ちゃんは生まれながらに善なのか

イェール大学の「ベビー・ラボ」で行われた一連の研究では、生後わずか6か月の赤ちゃんに、単純な幾何学図形を登場人物に見立てた人形劇を見せました。

舞台は、坂道です。赤い円が坂を上ろうとしますが、なかなかうまくいきません。そこへ黄色い三角形が現れ、後ろから押して、赤い円が坂を上れるように手助けします。研究者たちは、この三角形を「助ける役」としました。

続いて青い四角形が登場し、今度は赤い円を坂の下へと押し戻します。こちらは「邪魔する役」です。

劇が終わると、研究者たちは「助ける役」と「邪魔する役」の人形をトレーに載せ、赤ちゃんに好きなほうを選んでもらいました。

すると、興味深い結果が得られました。赤ちゃんの多くが、坂を上るのを助けた黄色い三角形に手を伸ばしたのです。

研究者たちは、赤ちゃんが単に黄色や三角形の形を好んでいるだけではないことを確かめるため、色や形を入れ替えた実験も行いました。それでも、赤ちゃんは一貫して、他者を助ける役割を果たした図形を選ぶ傾向を示しました。

同じような傾向は、日本の研究でも報告されています。

2017年に京都大学などの研究チームが行った実験では、パックマンのような幾何学的なキャラクターを使い、あるキャラクターが別のキャラクターを追いかけ、ぶつかる様子を赤ちゃんに見せました。そこへ第三のキャラクターが登場します。被害を受けているキャラクターを助けるように介入する場合と、その場から逃げてしまう場合を比較したところ、赤ちゃんは逃げるキャラクターよりも、介入して助けるキャラクターを選ぶ傾向が見られました。

こうした研究は、他者を助ける行動への好意的な反応が、罰を避けたり、周囲から褒められたりするために後から身につけるものとは限らないことを示唆しています。少なくとも、他者への共感や助け合いにつながる性質の一部は、かなり早い発達段階から見られるのかもしれません。

人間の善良さは、すべて後天的に学ぶものなのでしょうか。それとも、もともと備わっている何かが、成長とともに表れてくるのでしょうか。

この小さな実験は、そんな問いを私たちに投げかけています。

「落とし物の財布」という実験

では、大人になったらどうでしょうか。

生まれたばかりのころに見られた他者を助けようとする傾向は、現実社会の厳しさにさらされるうちに失われてしまうのでしょうか。

従来の経済学のモデルでは、人間は基本的に「合理的な利己主義」に従って行動すると考えられてきました。つまり、何かを無料で手に入れられ、しかも罰を受ける心配がないのであれば、自分の利益を優先するはずだ、という考え方です。

ところが、この見方に疑問を投げかける大規模な国際研究が行われました。

研究者たちは、世界40か国、355都市で、合計1万7,000個以上の財布を意図的に「落とし物」として置きました。財布の中身には現金が入っていないものもあれば、かなりの金額が入っているものもありました。そして、財布を受け取った人が持ち主に連絡し、返そうとするかどうかを調べたのです。

ホッブズのような悲観的な人間観が正しいのであれば、現金の入った財布は、ほとんど持ち主に戻らないはずです。見つけた人がそのまま自分のものにしてしまう、と考えるのが自然でしょう。

ところが、結果は予想に反するものでした。

大半の国で、人々は財布を持ち主に返そうとしました。しかも驚くべきことに、現金が多く入っている財布ほど、返却される可能性が高かったのです。

なぜでしょうか。

研究結果は、他者への配慮に加え、自分自身を「正直な人間」として捉えたいという気持ちが関係している可能性を示しています。財布の中身を自分のものにすれば、目先の金銭的な利益は得られるかもしれません。しかし、それと引き換えに、自分は人のものを盗んだ人間だと感じることになるかもしれません。

つまり、短期的な利益よりも、誠実な人間でありたいという自己イメージや、他者に対する配慮が優先される場合があるのです。

もちろん、人間が常に利他的に行動するわけではありません。それでも、この実験は、私たちが思っている以上に、他者への配慮や誠実さを大切にしている可能性を示しています。

利他性は人間の自然な反応なのか

まだ納得できないという人もいるかもしれません。そこで、もうひとつ興味深い研究を紹介しましょう。

人間の協力行動について調べた一連の実験では、状況によっては、時間をかけてじっくり考えるよりも、直感に従って素早く判断したほうが、他者のために行動しやすいことが報告されています。

たとえば、参加者にグループ内で資源を分け合うかどうかを決めてもらう実験です。短時間で判断するよう求められた参加者は、じっくり考える時間を与えられた参加者よりも、グループ全体のために資源を分け合う傾向を示しました。

考える時間が与えられると、反対に、自分がどれだけ得をするかという個人的な利益に目が向きやすくなったのです。

この結果は、少なくとも一部の状況では、他者と協力しようとする直感的な反応が、人間に備わっている可能性を示唆しています。

少し立ち止まって考えてみてください。

誰かが困っているのを見て、とっさに手を差し伸べる。落とし物を見つけて、反射的に持ち主を探す。そうした行動は、いつも損得を計算した末に選ばれるものとは限りません。

他者を助けることが、ごく自然な反応として表れる場合もあるのです。

そう考えると、利己心だけが人間の本能だと決めつけることはできません。自分の利益を優先することもあれば、他者を思いやり、協力することもある。そのどちらが表に出るかは、状況や経験によって変わるのかもしれません。

協力する生き物であり、残酷にもなれる人間

ここまでの研究を見ると、ルソーが正しかったようにも思えます。人間は生まれながらにして善良で、平和を愛する存在なのでしょうか。

答えは、そう単純ではありません。

人間の特徴のひとつは、善悪の両面にわたる行動の幅が、驚くほど広いことです。

進化の歴史から見ても、人間は不思議な存在です。日常生活では、驚くほど穏やかに、見知らぬ人同士で社会を営んでいます。

混雑した空港やカフェを思い浮かべてみてください。何百人もの見知らぬ人たちが限られた空間に集まり、それぞれの順番を守りながら、何事もなく過ごしています。

では、同じカフェに300頭のチンパンジーを集めたらどうなるでしょうか。5分もしないうちに、激しい争いが起きても不思議ではありません。

もちろん、この比較は人間とチンパンジーの複雑な社会性を単純化した例にすぎません。それでも、人間が大規模な集団の中で協力し、互いに一定の秩序を保ちながら暮らせる能力を持っていることは、注目に値します。

人間は、他者との協力を可能にする社会的な性質を高度に発達させてきました。

ところが、その一方で、特定の状況に置かれると、組織的な残虐行為や極端な暴力を生み出す能力も持っています。人を拷問し、集団で迫害し、時には大規模な殺戮を正当化することさえあります。

人間は、助け合うこともできれば、想像を絶するほど残酷になることもできるのです。

私たちが「善」と呼ぶ協力行動も、「悪」と呼ぶ攻撃行動も、進化の観点から見れば、生存に関わる行動の一面として捉えることができます。ただし、それぞれの行動がどのような条件で生じ、どのような結果をもたらすのかは、単純には説明できません。

ここで、少し居心地の悪い問いが浮かびます。

もし人間が他者への共感を示す性質を備え、協力する傾向も持っているのだとしたら、歴史上の大虐殺や、現代社会にあふれるさまざまな有害な行為は、いったいどこから生まれてくるのでしょうか。

人間は、生まれながらにして怪物だったわけではないとしたら、いったい何が人を怪物へと変えてしまうのでしょうか。

悪の凡庸さ:なぜ「普通の人」がひどいことをするのか

人間の残酷さについて考えるとき、真っ先に思い浮かぶのは、苦しむ人を見ることを楽しむような「怪物」ではないでしょうか。人を傷つけることを自ら望み、意図的に他者を苦しめる、特別に邪悪な人物です。

ある意味では、そう考えるほうが安心できます。悪がごく一部の「怪物」だけに存在するのなら、それ以外の人々は安全だと思えるからです。

けれど、歴史や心理学、社会学が伝えているのは、もっと不穏な現実です。

人類史に残る残虐な行為のすべてが、特別に邪悪な人間によって引き起こされたわけではありません。ごく普通の人が、ある状況に置かれたことで、驚くほど残酷な行為に加担してしまうこともあるのです。

官僚制が生む思考停止

1961年、哲学者のハンナ・アーレントは、ホロコーストの主要な実行責任者の一人であったアドルフ・アイヒマンの裁判を取材しました。

アーレントは当初、そこに血も涙もない、残虐な怪物のような人物を見いだすのではないかと考えていたかもしれません。しかし、実際に彼女の目に映ったのは、拍子抜けするほど平凡で、おとなしい官僚でした。

アーレントが描いたアイヒマン像は、憎悪に燃える異常な人物というよりも、出世への欲求や権威への盲目的な服従に突き動かされ、自分で考えることをやめてしまった人間でした。

命令に従い、与えられた仕事をこなす。その行為が何を意味し、どれほど多くの人々を苦しめることになるのかを、自分自身の問題として深く考えようとしなかったのです。

この経験を通じてアーレントが提起したのが、「悪の凡庸さ(the banality of evil)」という概念です。

ここでいう「凡庸さ」とは、悪が取るに足らないものだという意味ではありません。途方もなく大きな悪が、必ずしも特別な怪物のような人間から生まれるとは限らず、ごくありふれた人間の思考停止や、無批判な服従から生まれることがある、という洞察です。

人間の歴史を振り返ると、目を覆いたくなるような残虐行為の多くが、異常な人間だけによって実行されたわけではないことがわかります。周囲の命令に疑問を持たずに従う人、自分の行動の責任を考えようとしない人、そして「自分はただ決められた仕事をしているだけだ」と考える人。そうした人々もまた、恐ろしい出来事に加担することがあります。

もちろん、アイヒマンの人物像やアーレントの解釈については、後世の研究者からも異論が出ています。それでも、彼女が提起した問いは、今なお考える価値があります。

人間にとって本当に危険なのは、「人を傷つけたい」という明確な悪意だけではありません。「自分はただ仕事をしているだけだ」という、考えることを放棄した態度もまた、大きな害を生み出し得るのです。

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個人の問題か、環境の問題か——「ルシファー効果」

こうした現象を考えるうえで、心理学の分野でも興味深い研究が行われてきました。

その代表例として知られるのが、心理学者フィリップ・ジンバルドーが主導した「スタンフォード監獄実験」です。

この実験では、心身ともに健康と判断された大学生たちを集め、模擬刑務所の環境をつくりました。参加者の一部は看守役に、残りは囚人役に割り当てられました。

すると、わずか数日のうちに、看守役の一部が権威的で威圧的な振る舞いを見せ始めました。一方、囚人役の参加者たちも強い精神的ストレスを受け、実験の継続が困難になるほどの状態に陥りました。

ジンバルドーは、こうした現象を「ルシファー効果(Lucifer Effect)」という概念と結びつけて論じました。人間の行動は、その人自身の性格だけで決まるのではなく、置かれた状況や社会的な役割、周囲の環境によっても大きく変わり得る、という考え方です。

この実験は広く知られるようになりましたが、実施方法や結果の解釈については、後年、科学的な批判も寄せられています。そのため、特定の環境に置かれれば誰もが必ず残酷になることを証明した実験として捉えるのは正確ではありません。

それでも、この研究が突きつける問題は重要です。

社会では、問題を起こした個人を「悪い人間」として特定し、その人を排除することで解決を図ろうとすることがあります。これは、いわゆる「腐ったリンゴ」を取り除くという発想です。

けれど、個人だけに目を向けていると、その人の行動を引き起こした環境や制度の問題を見落としてしまうかもしれません。

どれほど残酷な行為であっても、それが当たり前とされ、疑問を持つことが許されず、従う者ほど評価されるような環境であれば、人々は少しずつそのあり方に染まっていく可能性があります。

この問題を表すのが、「腐った樽」という比喩です。腐ったリンゴだけでなく、それを腐らせてしまう樽そのものにも目を向けよう、という考え方です。

もちろん、環境に影響されたからといって、個人の責任がなくなるわけではありません。しかし、悪い行為を個人の資質だけで説明しようとすれば、同じことが繰り返される原因を取り除けないままになってしまいます。

大切なのは、「誰が悪いのか」を考えるだけでなく、「どのような環境が、このような行為を可能にしているのか」という問いも忘れないことではないでしょうか。

集団の中で「自分」を見失う危うさ——脱個人化

日常の中で悪に加担するためには、必ずしも強い憎悪や残虐な意図が必要なわけではありません。

ときには、自分自身の判断や責任を意識する感覚が薄れてしまうだけで、普段ならしないような行動を取ってしまうことがあります。

心理学では、こうした現象の一つを「脱個人化(de-individuation)」と呼びます。

大勢の人々に囲まれているときや、インターネット上で匿名のアカウントの陰に隠れているとき、自分が一人の人間として何をしているのか、その行為にどのような責任が伴うのかという意識が弱まることがあります。

普段なら「これは本当に正しいことなのだろうか」と考える場面でも、いつの間にか別の問いが頭を占めるようになります。

「ほかの人たちは、どうしているのだろう?」

人間は、集団から孤立することを恐れる傾向があります。進化の歴史を振り返れば、集団から追放されることは、生存そのものを脅かす危険につながっていました。

そうした背景もあり、私たちは周囲に受け入れられたい、仲間から外れたくないという気持ちを抱くことがあります。

その結果、自分の信念とは相容れない行動であっても、周囲がそれを支持していると、つい同調してしまうことがあるのです。

誰かが攻撃されている場面で、周囲の人々が次々と加勢していく。自分一人ならためらうような言葉でも、大勢が口にしていると、抵抗なく使ってしまう。

そうしたとき、一人ひとりの中にある良心が、完全に消えてしまったとは限りません。ただ、それを行動に移すための意識や勇気が、集団の空気に押し流されてしまうのです。

気づけば、「自分は本当にそう思っているのか」という問いさえ、頭に浮かばなくなっているかもしれません。

デジタル時代の闘技場——キャンセルカルチャーとネットリンチ

「悪の凡庸さ」が表れる場面を知るために、20世紀の歴史を振り返る必要はありません。手元のスマートフォンを開くだけでも、その一端を目にすることがあります。

SNS上で誰かが失言したり、問題のある行動を取ったりすると、瞬く間に批判が広がり、大勢の人々が一斉に攻撃へと加わることがあります。いわゆる「キャンセルカルチャー」や「ネットリンチ」と呼ばれる現象です。

もちろん、不正や有害な行為を指摘すること自体が悪いわけではありません。権力を持つ人や組織の問題を明るみに出し、被害を受けた人々の声を届けることには、重要な意味があります。

問題は、批判がいつの間にか集団的な攻撃へと変わり、相手を一人の人間として見る視点が失われてしまうことです。

攻撃に加わる一人ひとりにとって、その行為はごく些細なものに感じられるかもしれません。ソファに座ったまま数回キーを打つ。皮肉めいたミームを投稿する。誰かの投稿を軽い気持ちで拡散する。どれも、ほとんど労力を必要としません。

しかも、本人は自分が悪いことをしているとは思っていないかもしれません。間違いを犯した「悪者」を懲らしめ、正義を実現しているのだと感じていることさえあります。

ところが、同じような行為が何万、何百万という人々によって繰り返されれば、その影響は一人の人間が受け止められる範囲を大きく超えてしまいます。

事情を理解しようとする余地は失われ、相手への共感も薄れていきます。批判される側は、間違いを犯した一人の人間ではなく、攻撃しても構わない対象として扱われるようになります。

そして、世界から悪を取り除こうとしていたはずの集団が、いつの間にか、自分たちが憎んでいたものとよく似た残酷さを示すようになるのです。

この現象は、人間の本性について考えるうえで、受け入れがたい事実を突きつけます。

大きな害をもたらす人が、必ずしも自分を悪人だと思っているわけではありません。むしろ、自分は正しいことをしている、善を守っている、世界をよりよくしようとしていると信じている場合さえあるのです。

歴史の暗い一章を書き残してきた人々の中にも、自分たちこそが正義を体現し、社会を「純粋なもの」にしようとしていると考えた人々がいました。

悪は、いつも悪意に満ちた顔をして現れるわけではありません。

ときには、正義の仮面をかぶり、善を守ろうとする熱意の中に紛れ込んでいることもあるのです。

人間の本性は善か悪か

人間の本性は善か悪か?

「怪物」という幻想と、「純粋さ」がはらむ危うさ

歴史を注意深く見ていくと、ひとつの逆説に気づきます。世界に大きな苦しみをもたらした人々も、常に怪物のような顔をしていたわけではありません。実際、残虐な独裁者の中にも、意外なほど穏やかで優しい一面を持っていた人物がいます。

  • たとえば、アドルフ・ヒトラーは菜食主義者として知られ、愛犬をかわいがり、側近たちに対して父親のような温かい態度を見せることもあったといわれています。
  • カンボジアの大虐殺を主導したポル・ポトも、若い頃を知る人々からは、物静かで笑顔を絶やさないフランス語教師として語られることがありました。

こうした矛盾を、どう理解すればよいのでしょうか。

どれほど残虐な行為をした人間であっても、その心の奥底には善良さが残っているということなのでしょうか。

この問いに、明確な「はい」か「いいえ」で答えるのは難しいでしょう。ただ、もう少し細やかな視点から考えることはできそうです。

それは、人間は誰に対しても一貫して善良なのではなく、相手によって善悪の基準を使い分けることがある、という見方です。ここでは、これを「選択的な道徳性」と呼ぶことにします。

ふと見せる善意と、本当の善良さ

歴史上の加害者が、ときおり親切な行動を見せたからといって、その人が根本的に善良だったとは限りません。そうした善意には、特定の条件や個人的な利害が結びついていることもあります。

ヒトラーと、ユダヤ人医師エドゥアルト・ブロッホの関係を例に考えてみましょう。

ブロッホは、ヒトラーの母親の診療にあたった医師でした。母親が亡くなった後も、ヒトラーは彼に感謝の気持ちを抱いていたとされ、ナチス政権下でユダヤ人への迫害が激しくなる中でも、ブロッホには特別な保護が与えられました。ヒトラーは彼を「高潔なユダヤ人」と呼んだとも伝えられています。

しかし、こうした特別扱いを、ヒトラーの道徳性そのものの証拠と見なすことはできません。

ひとつの解釈として考えられるのは、ブロッホを大切にすることが、ヒトラー自身の自己イメージを守ることにもつながっていた、という見方です。母親を大切に思い、その母親を治療してくれた医師に恩義を感じる「忠実で、恩を忘れない息子」。そうした自分自身の物語と、ブロッホを迫害することは矛盾していたのかもしれません。

もちろん、本人の内面を完全に知ることはできないため、こうした心理的な解釈を断定することはできません。それでも、この事例は、人間の善意がどれほど限定的なものになり得るかを考える手がかりになります。

特定の相手には優しくできる。自分にとって大切な人を守ることもできる。けれど、その優しさが、必ずしも自分とは関係のない人々にまで向けられるとは限りません。

こうした「善意」は、ときに危険な働きをします。

自分が誰かに親切にしたという事実が、自分は善良な人間だという確信を支えてしまうからです。その確信があれば、自分が別の場所でどれほど多くの人々を苦しめていたとしても、その現実を直視せずに済んでしまうかもしれません。

想像してみてください。

自分が火を放った建物から出るとき、誰かのためにドアを押さえてあげたとします。それだけで、善良な人間になれるでしょうか。

もちろん、そうではありません。

本当の意味での善良さには、誰に対しても向けられる普遍性が必要です。 自分に利益をもたらしてくれる人や、自分の仲間だけでなく、どんな人にも安全に生き、尊厳を持って扱われる権利があると認めること。それこそが、単なる親切と、より深い道徳性を分けるものなのではないでしょうか。

「完全に清らかであろう」とすることの落とし穴

ここから、もうひとつ不穏な可能性が浮かび上がってきます。

それは、自分の中にある暗い側面を一切認めず、完全に「純粋」であろうとすることが、かえって怪物を生み出すことがある、ということです。

精神分析家のカール・ユングは、人間には誰しも、光と影の両面があると考えました。

自分の利益を優先したい気持ち、怒り、攻撃性、時には他者を傷つけたいという衝動。程度の差こそあれ、そうした側面は誰の中にも存在する可能性があります。

ところが、社会はしばしば、それらを「悪いもの」として扱い、なくしてしまうべきだと教えます。

では、私たちはどうするのでしょうか。

自分の中にそうした感情があることを認めず、押し込めてしまうのです。意識の外へと追いやり、見ないようにする。ユングは、こうした無意識の中に押し込められた、自分が認めたくない側面を「影(シャドウ)」と呼びました。

けれど、認めなかったからといって、その暗い側面が消えてなくなるわけではありません。むしろ、自覚されないまま、別の形で表に現れてくることがあります。

個人であれ社会であれ、自分たちは完全に「純粋」でなければならないと考えると、自分の中にある暗さを認めることがますます難しくなります。

そして、自分が認めたくないものを、他者の中に見いだすようになることがあります。

自分の中にある残酷さや攻撃性を直視する代わりに、それらを特定の人々や集団に投影し、「あの人たちこそが悪の根源だ」と考えるのです。

その構図は、歴史上のさまざまな出来事にも見て取れます。

たとえば、17世紀末のセイラム魔女裁判や、20世紀の全体主義体制です。そこでは、自分たちこそが正義を体現し、社会を脅かす邪悪な存在を取り除くという使命を担っている、と信じた人々がいました。

彼らは必ずしも、自分たちを悪人だとは考えていませんでした。むしろ、世界から悪を取り除き、より純粋で正しい社会をつくろうとしていると信じていたのです。

しかし、自分たちの中にも暗い側面があることを認めなければ、他者に対して振るっている暴力や残酷さにも気づきにくくなります。

「悪を取り除く」という大義のもとで、自分たち自身の悪には目を向けなくなる。その結果、悪をなくそうとしていたはずの人々が、いつの間にか自ら残酷な行為を重ねるようになるのです。

自分の中の暗さを認めることと、それを正当化することは違います。 怒りや攻撃性が自分の中にも存在すると認めたからといって、それらを好きなように表に出してよいわけではありません。

むしろ、自分にも人を傷つける可能性があると理解するからこそ、その衝動をどう扱うのか、どのような行動を選ぶのかを考えられるようになります。

完全に清らかな人間であろうとすることよりも、自分の中にある光と影の両方を見つめること。そのほうが、人間として誠実に生きるための出発点になるのかもしれません。

カール・ユング 影 内なる闇

日常に潜む「影」——人に合わせすぎること

ユングのいう「影」の働きは、歴史上の独裁者や残虐な行為に限った話ではありません。もっと身近な日常生活の中にも、その姿を見ることができます。

たとえば、誰からも嫌われたくないあまり、いつも相手に合わせてしまう人です。

周囲から「優しい人」「いい人」「何でも受け入れてくれる人」と思われるために、自分の望みや怒りを押し込め、相手にとって都合のよい存在であろうとします。本当は嫌でも断れない。納得できないことがあっても、不満を口にできない。自分の限界を超えてまで、他人の期待に応えようとしてしまいます。

一見すると、周囲との調和を大切にする、善良な人に見えるかもしれません。

けれど、自分の欲求や感情を完全に消し去ることはできません。誰かの役に立ちたいと思う一方で、自分のことも大切にしたい。人に優しくありたいと思う一方で、ときには腹が立つこともある。そうした気持ちは、どれほど抑え込もうとしても、簡単にはなくならないものです。

やがて、心の奥に押し込めた感情が、少しずつ別の形で表に漏れ出してきます。

いつも笑顔で接していた相手に、ある日突然、激しい怒りをぶつけてしまう。直接不満を伝えられない代わりに、皮肉を言ったり、わざと遠回しな態度を取ったりする。表面上は相手を気遣っているように見えても、内側では不満や恨みが積み重なっていることがあります。

完全に「いい人」であろうとした結果、自分自身も、周囲の人々も、かえって苦しめてしまうのです。

もちろん、他者に配慮することや、時には自分の欲求を譲ること自体が悪いわけではありません。問題なのは、善良であるためには自分の感情や欲求をすべて否定しなければならない、と考えてしまうことです。

結局のところ、誰にも害を与えないことと、善良であることは同じではありません。

本当に善良な人とは、自分の中にも他者を傷つける可能性があると理解したうえで、それでも相手を傷つけない選択をしようとする人なのではないでしょうか。

怒りを感じることがあっても、その怒りを相手にぶつけるとは限りません。自分の利益を求める気持ちがあっても、それだけを優先する必要はありません。暗い感情を抱くことと、その感情に従って行動することは、別の問題だからです。

つまり、善良さとは、暗い側面が一切存在しない状態ではありません。自分の中にある影を認め、その存在と向き合いながら、衝動に振り回されずに行動を選び取っていくことです。

闇を完全に消し去ることではなく、闇が自分の中にあることを知り、その扱い方を学んでいくこと。

そう考えると、本当の善良さとは、純粋さを守り抜くことよりも、自分の中にある矛盾を引き受けながら、それでも誠実であろうとする姿勢に宿るのかもしれません。

「天に届くほどに伸びる木は、その根を地獄にまで張っていなければならない、と言われている。」

— カール・ユング

天に届くほどに伸びる木は その根を地獄にまで張っていなければならない

極限状況で、人はどう振る舞うのか

「強制収容所において、仲間が豚のようにふるまうのを見たこともあれば、聖人のようにふるまうのを見たこともある。どちらの可能性も、人間の中にある。そして、どちらが実現するかは、状況ではなく選択にかかっている。」

― ヴィクトール・フランクル『夜と霧』

ここまで、ありふれた人々であっても環境によって行動が変わり得ることや、完全に「純粋」であろうとすることが、かえって思わぬ結果を招くことを見てきました。

では、今度は環境そのものが失われたら、どうなるのでしょうか。

法律も警察も機能せず、社会からの期待や規範さえなくなってしまったとき、人々はどのように振る舞うのでしょうか。

映画やドラマでは、「文明は薄い仮面にすぎない」という考え方がしばしば描かれます。これに近い見方は「ヴェニア理論(Veneer Theory)」と呼ばれます。文明や礼儀は、人間の本性を覆っているだけの薄い膜にすぎず、その表面を少し引っかけば、すぐに暴力的な獣が姿を現す、という考え方です。

普段は礼儀正しく振る舞っている人々も、いざ生き残るかどうかという瀬戸際に立たされれば、本性をむき出しにして互いに争い始める。果たして、本当にそうなのでしょうか。

フェリー実験——『ダークナイト』が突きつける問い

「今夜、お前たちは全員、社会実験の一部になる。軽油と硝酸アンモニウムの力を使えば、俺は今すぐにでもお前たちをまとめて吹き飛ばせる。船から降りようとしたら、全員死ぬことになる。

どちらの船にも、もう一方の船を爆破するための起爆装置がある。真夜中になれば、俺が両方とも爆破する。だが、どちらかの船の人間がボタンを押せば、その船は助けてやろう。

さあ、どっちにする? ハービー・デントが指名手配した犯罪者どもの集まりか、それとも罪のない善良な市民か。選ぶのはお前たちだ……。

ああ、早く決めたほうがいい。向こうの船の連中は、そこまで高潔じゃないかもしれないからな。」

— ジョーカー、『ダークナイト』

人間の本性をめぐる「文明は薄い仮面にすぎない」という考え方を、現代の作品の中で印象的に描いた例のひとつが、映画『ダークナイト』に登場するフェリーの場面です。

物語のクライマックスで、ジョーカーは二隻のフェリーに爆弾を仕掛けます。一隻には一般市民が、もう一隻には有罪判決を受けた犯罪者たちが乗っています。そして、それぞれの船に、もう一方の船を爆破するための起爆装置を渡します。

真夜中までに相手の船を爆破すれば、自分たちの船は助かる。どちらもボタンを押さなければ、最後にはジョーカーが両方の船を爆破する。そんな条件を突きつけられるのです。

ジョーカーが確かめようとしているのは、まさにホッブズ的な人間観でした。

「いざとなれば、文明人だって……互いに食い合う。」

生き残るために追い詰められたとき、普段は理性や道徳を重んじている人々も、結局は自分の命を優先して他者を犠牲にするのではないか。ジョーカーはそう考えていたのです。

恐ろしい実験です。ところが、二隻の船で実際に起きることは、人間の本性について興味深い問いを投げかけます。

  • 市民の乗るフェリー

市民の乗る船では、集団心理の危うさが表面化します。

乗客たちは話し合いの末、犯罪者たちの乗る船を爆破することに賛成票を投じます。相手は犯罪者なのだから、自分たちが生き残るために犠牲にしてもよいのではないか、という考えです。

集団の中では、一人ひとりが結果に対する責任を感じにくくなることがあります。責任が分散し、自分一人で決断したわけではないと思えるからです。こうした心理は、周囲に人がいることで個人の行動が変わる「傍観者効果」とも通じるものがあります。

ところが、いざ自分の手でボタンを押す段階になると、誰一人として実行に移すことができません。

議論の中で他者の命を犠牲にすることに賛成するのと、実際に自分の手で人を死なせるのとでは、大きな違いがあったのです。命を奪うという行為の重さが、最後の一線を越えることを思いとどまらせます。

  • 囚人たちの乗るフェリー

もう一方の船では、さらに印象的なことが起こります。

体格の大きな囚人が立ち上がり、恐怖におびえる看守から起爆装置を渡すよう要求します。

「死にたくはないくせに、人を殺す覚悟もないんだろ。俺に渡せ。こいつらはお前を殺して、どうせ起爆装置も奪い取る。俺に渡せばいい。『無理やり奪われた』と言えば済む話だ。

渡せ。お前が10分前にやるべきだったことを、俺が代わりにやってやる。」

看守が起爆装置を手渡すと、囚人は意外な行動に出ます。船を爆破するのではなく、装置を窓の外へ投げ捨て、川の中に沈めてしまったのです。

最終的に、ジョーカーの思惑は外れます。

極限まで追い詰められた二隻の船の人々は、恐怖や疑念に揺さぶられながらも、最後のところで暗闇に飲み込まれることを拒みました。少なくとも、この物語の中では、生き残るために必ずしも他者を犠牲にする必要はなかったのです。

もちろん、これは映画の中の出来事です。現実の人間が同じ状況で必ず同じ選択をするとは限りません。

それでも、この場面はひとつの問いを残します。

人間は、本当に追い詰められれば、必ず互いを傷つけ合うのでしょうか。

「それは映画だからだ」と思う人もいるかもしれません。では、現実の世界で大災害や危機が起きたとき、人々はどのように振る舞うのでしょうか。

「文明は薄い仮面にすぎない」という見方

現実の世界で大災害が起きると、報道では略奪や混乱といった出来事が大きく取り上げられることがあります。地震や津波、テロなどの惨事が発生したとき、人々がパニックに陥り、互いに争い始めるというイメージが強調されることも少なくありません。

こうした報道に触れ続けていると、文明や社会秩序は脆いものであり、ひとたび危機が訪れれば、人間はすぐに自分の利益だけを追い求めるようになる、と思えてしまいます。

しかし、災害時の人々の行動を調べた社会学の研究は、こうした悲観的な見方が、必ずしも現実を正確に捉えていないことを示しています。

たとえば、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロで世界貿易センターのツインタワーが崩壊した後など、現実の惨事の直後に見られたのは、他者への敵意や無秩序なパニックばかりではありませんでした。

むしろ、多くの場面で、人々は互いに助け合おうとしていました。

バケツリレーのように協力して救助や消火にあたる。限られた食料や水を分け合う。瓦礫の下に取り残された人を助けるため、素手で破片を取り除こうとする。

しかも、助け合う相手は、必ずしも家族や友人、親しい知り合いとは限りません。ほんの数時間前までは見知らぬ他人だった人のために、危険を冒して救助に向かうこともあるのです。

危機に直面すると、人種や階級、政治的な立場といった、普段は人々を分け隔てている境界が一時的に薄れることがあります。そして、日常では交わることのなかった人々が、同じ場所で協力し、互いの命を守ろうとします。

そこに見えてくるのは、文明の下に隠れていた怪物ではありません。

むしろ、人間同士がもともと深くつながっているという事実なのかもしれません。

危機が訪れれば、誰もが自分のことしか考えなくなる。社会の秩序が崩れれば、人間はたちまち残酷になる。そんな悲観的な人間観とは対照的に、極限状況であっても、他者を助けようとする人々がいます。

もちろん、災害時に略奪や暴力が起きないというわけではありません。恐怖や混乱が人々の行動に影響することもあります。それでも、そうした出来事だけを取り上げて、人間の本性そのものを説明することはできません。

普段は互いに無関心だった人々が、危機を前にして見知らぬ誰かのために力を尽くす。その姿は、人間の中には利己心だけでなく、共感や協力を支える力も備わっていることを思い出させてくれます。

もしかすると、文明とは、人間の野性を覆い隠すための薄い仮面ではないのかもしれません。

人間同士が協力し、互いを支え合うこともまた、私たちの本性の一部なのではないでしょうか。

「真理を見た。人間は、この地上で生きる力を失うことなく、美しく、幸福になれるのだという真理を見た。人間にとって悪が当たり前の状態なのだとは、私は信じたくない。そして、信じることもできない。」

— フョードル・ドストエフスキー『可笑しな人間の夢』

暗闇の中の光

人間の本性は善か悪か?

善悪の二元論を超えて

ここまで見てきたように、人間には他者とつながり、協力しようとする性質が備わっています。その一方で、有害な環境の影響を受けやすく、自分の中にある「影」にも振り回されます。

では、こうした人間の本性を前にして、私たちにできることは何でしょうか。

ひとつの選択肢があります。

そもそも「人間の本性は善か悪か」という問いを抱くきっかけとなった心の痛みを癒やしていくためには、人間の行動を捉える視点そのものを変えてみることが大切です。

裁くことから、理解することへ

現代社会では、人間の行動を「法廷」のような視点から捉えることが少なくありません。自分が裁判官の席に座り、相手の行為を審査し、最終的に判決を下す。誰かに傷つけられたとき、相手の行動を裁き、「有罪」「悪人」「邪悪な人間」と結論づけるのです。

それに対して、仏教や正統派ヒンドゥー教などの思想には、まったく異なる見方があります。それは、人間のあり方を「法廷」ではなく「病院」のような視点から捉えることです。

この考え方では、人間の過ちを、治療や克服が可能な病のように捉えます。人が悪い行いをしたからといって、その人の本質まで邪悪だと決まるわけではありません。むしろ、無明(アヴィディヤー)、すなわち物事の本質を正しく理解できていないことが、その行動につながっている場合もあると考えます。

たとえば、病院で意識が混濁した患者が取り乱し、周囲の人に当たり散らしたとします。そのとき、医師は患者を「邪悪な人間だ」と決めつけるでしょうか。

そうではなく、患者が苦しみや混乱の中でそのような行動を取っていることを理解し、何が起きているのかを見極めようとするはずです。

もちろん、他者を傷つける行為を何でも病気にたとえればよい、というわけではありません。それでも、この「病院」のような視点に立つと、関心の向け先が変わります。

「この人は、なぜこんなひどいことをしたのだろう」と問い、行為を非難するだけで終わらせず、その背景にある苦しみや無理解、心の問題を探ろうとするのです。

人間の過ちを理解しようとすることは、その行為を正当化することとは違います。

裁くことだけにとらわれず、何がその行為を生み出したのかを理解しようとすること。 それが、善悪の二元論を超えるための第一歩になるのではないでしょうか。

善悪の二元論を超えて

行為と、その人自身を切り分ける

こうした視点を持つうえで、欠かせないことがあります。それは、行為と、その行為をした人自身を切り分けて考えることです。

誰かを「根っからの悪人」と決めつけてしまうと、その人が別の選択をする可能性まで否定してしまうことになります。複雑な背景やさまざまな側面を持つ一人の人間を、その人が犯した最悪の行為だけで判断してしまうのです。

また、その人の行動が、何の理由もなく突然生まれたかのように捉えてしまうこともあります。その背後にある幼少期のトラウマや、育ってきた環境、人間関係などが、どのような影響を与えてきたのかを見落としてしまうのです。

もちろん、過去の経験や環境があるからといって、その人の行為が正当化されるわけではありません。誰かを傷つけたのであれば、その責任に向き合う必要があります。

それでも、行為と人間そのものを同一視しないことには、大切な意味があります。

ここで、古くから伝えられてきた言葉をひとつ思い出してみましょう。

「罪を憎んで、人を憎まず。」

この言葉は、現実を知らない理想論のように聞こえるかもしれません。けれど、実際には、とても現実的な意味を持っています。それは、他者を人間として扱うことをやめてしまうことで、自分自身の人間性まで損なわないようにする、ということです。

誰かの失敗を公然と非難したり、その人の人生を徹底的に破壊したりすることに、集団が一種の高揚感を覚えることがあります。正義を掲げているように見えても、その実態は、仲間意識や集団への帰属意識が生み出す攻撃性にすぎない場合もあります。

哲学者フリードリヒ・ニーチェは、次のような言葉を残しています。

「怪物と戦う者は、自らも怪物にならないよう気をつけなければならない。」

他者の悪を追及することに夢中になるあまり、自分自身もまた、相手の尊厳を踏みにじるような存在になっていないでしょうか。

悪い行為を悪いと認めることと、その行為をした人間から人間性そのものを奪うことは、同じではありません。

人を傷つけた行為には、責任が伴います。被害を受けた人を守り、必要な距離を置き、適切な対応を取ることも大切です。それでもなお、相手を単なる「怪物」として片づけず、一人の人間として捉える余地は残されています。

相手の過ちを見過ごさず、それでも相手の人間性まで否定しないこと。 その両立を模索することが、善悪の二元論を超えるうえで重要なのだと思います。

人間を捉える言葉を変える

物事の見方を本当に変えるためには、使う言葉そのものを見直してみることも大切です。

「善」や「悪」という言葉には、強い道徳的な意味が込められています。誰かを「悪」と呼んだ瞬間、その人について考えることをやめ、そこで話を終わらせてしまうこともあります。

では、こうした言葉を、もう少し人間への理解を促す言葉に置き換えたら、何が変わるでしょうか。

  • 「悪」から「傷つき」や「無知」へ

「悪」という言葉は、ときに思考を止めてしまいます。相手を悪人と決めつけると、その人の行動について、それ以上考える必要がないように感じられるからです。

一方で、「この人は、過去の傷ついた経験から、こんな行動を取っているのかもしれない」「物事を十分に理解できていないために、こうした振る舞いをしているのかもしれない」と捉え直してみると、別の問いが生まれます。

なぜ、そのような行動を取るのか。どんな恐れや不安が、その人を動かしているのか。何を理解できていないのか。

相手を理解しようとする余地が生まれるのです。

たとえば、同僚が昇進するために、自分に責任を押しつけたとします。そんなとき、相手を「邪悪な人間だ」と決めつければ、怒りや憎しみを抱えたまま、胸のつかえがなかなか取れないかもしれません。

一方で、その行動の背景に、強い劣等感や自信のなさ、不安などがあるのかもしれないと考えてみたらどうでしょうか。

もちろん、それで相手の行為が許されるわけではありません。仕事上の責任を明確にし、必要であれば距離を置き、自分の立場を守ることも必要です。

ただ、相手の行動を理解しようとすることで、憎しみにとらわれ続けずに済むかもしれません。相手の問題を自分の心の中にまで持ち込み、いつまでも苦しみ続ける必要はなくなるのです。

相手を理解することと、相手を許すことは同じではありません。ましてや、相手の行為を受け入れる必要もありません。

傷つけられないための境界線を保ちながら、相手を少し距離を置いて見つめる。憎しみではなく、理解や憐れみを通じて向き合うこともできます。

「悪」という言葉をいったん脇に置いてみるだけで、相手との向き合い方や、自分自身の心のあり方が変わることがあるのです。

  • 「善」から「調和」へ

同じように、「善」という言葉についても、少し視点を変えてみることができます。

「この行動は道徳的に正しいのだろうか」と、決められた規則に照らして判断するだけでなく、「この状況で、調和を取り戻すためには何が必要なのだろうか」と考えてみるのです。

ここでいう調和とは、ただ争いを避けたり、誰かに合わせたりすることではありません。自分と他者、そして周囲の環境との関係を見つめ、何が状況をよりよい方向へ導くのかを考えることです。

決められたルールに従い、自分が「善良な人間」であることを証明しようとするだけでは、目の前で本当に必要とされていることを見落としてしまう場合があります。

一方、「今、この場をよりよい状態にするためには何が必要なのか」という問いを持てば、形式的な正しさにこだわるのではなく、その場の状況をよく見て、必要な行動を選びやすくなります。

ときには、相手の話を黙って聞くことが必要かもしれません。ときには、間違いを率直に指摘することが必要かもしれません。また、相手のためを思うからこそ、はっきりと断ったり、距離を置いたりすることが、結果的に双方のためになる場合もあります。

大切なのは、あらかじめ決められた「善人らしさ」に自分を当てはめることではありません。目の前の状況に意識を向け、何が求められているのかを考えながら行動することです。

善か悪かという問いにとらわれず、調和を取り戻すために何ができるのかを考える。そうした視点は、私たちを過度な自己防衛や、正しさへのこだわりから解放してくれるかもしれません。

人間の本性を理解することは、誰が善人で誰が悪人なのかを決めることではありません。人間の複雑さを認めたうえで、目の前の人や状況に、どのように向き合っていくかを考えることなのではないでしょうか。

「個人の生き方は、すべてに影響を及ぼしている。

したがって、考えなければならない。あの若者が強姦をするような人間になってしまったのは、我々がどのような生き方をしてきたからなのか、と。

……彼が生まれた家は、何代にもわたり貧困にあえいできた。十三歳で父に従い船に乗らねばならず、彼には『理解』や『愛』という心の糧(かて)がなかったのである。

銃があれば彼を撃ち殺せるかもしれない。だが、彼が理解し、愛することができるよう助けるほうが良かったのではないか?

昨夜、タイの海岸で何百もの赤ん坊が生まれた。もし適切な世話がなされなければ、その中から海賊になる者も出るだろう。それは誰の責任か? ほかならぬ、私たちの責任である。

もし私が、教育も受けられない貧しい子供として生まれていたなら、私自身も海賊になっていたかもしれないのだ。

生きとし生けるものの苦しみはすべて、私たち自身の苦しみである。私たちが彼らであり、彼らが私たちであるということを見極めなければならない。その苦しみを目の当たりにしたとき、慈悲と愛の矢が心を射抜くのである。」

— ティク・ナット・ハン『死もなく、怖れもなく』

相互存在

おわりに|人類はいま、岐路に立っている

人類の歴史を振り返ると、今の私たちは、大きな転換期に立っているように思えます。

歴史学では、「枢軸時代」と呼ばれる時代があります。紀元前500年ごろを中心とするこの時期、人間の意識や思想に大きな変化が起こりました。ソクラテス、ブッダ、老子といった思想家たちの影響もあり、人々は部族や共同体の枠組みだけにとらわれた考え方から離れ、一人ひとりの人間の価値や生き方について、より深く考えるようになっていったとされています。

そして現代、今度は「第二の枢軸時代」を迎えつつあるのではないか、と考える哲学者たちもいます。今回の変化は、孤立した個人という視点から、あらゆる存在が互いにつながっているという視点への移行です。

私たちは今、かつてないほど複雑な世界的危機に直面しています。生態系の崩壊をはじめとする環境問題、急速に発展する人工知能(AI)、そして国境を越えて人々を結びつけるグローバルなネットワーク。こうした変化は、これまでの社会のあり方を大きく揺さぶっています。

悲観的な立場から見れば、こうした混乱は、人間が本質的に邪悪な存在であることへの報いのように思えるかもしれません。

けれど、もう少し広い視点から眺めてみると、違った見方もできます。

今、私たちが経験している混乱は、変化し続ける社会に、古い価値観や制度の枠組みが追いつかなくなっていることから生じているのかもしれません。

これまで人々を支えてきた仕組みが、もはや新しい現実に十分に対応できなくなっている。そうした軋みが、さまざまな危機となって表面化しているとも考えられます。

そして、現代の危機が私たちに突きつけているのは、ひとつの重要な事実です。

それは、一つの国、一つの民族、一人の人間だけですべてを解決することはできない、ということです。

気候変動も、技術の急速な発展も、国際社会を揺るがす問題も、私たちが互いに深くつながっている以上、誰か一人の問題として切り離すことはできません。

どこか遠くで起きた出来事も、巡り巡って自分の暮らしに影響を及ぼします。反対に、自分が何気なく選んだ行動も、思いがけない形で他者や社会に影響を与えることがあります。

もはや、自分たちは互いに無関係な存在だという幻想を保ち続けることは難しくなっているのです。

だからこそ、善か悪かという白黒の二元論にしがみついている余裕は、ますますなくなっています。

誰かを悪者に仕立て上げ、その人物や集団を排除すれば、すべてが解決する。そんな単純な考え方では、複雑に絡み合った問題の本質にはたどり着けません。

今、私たちが認識する必要があるのは、善と悪を分ける境界線は、国や民族、集団の間に引かれているのではなく、一人ひとりの心の中を通っているということです。

人間は、宇宙への旅を可能にするほどの技術を生み出せる存在です。その一方で、想像を絶するほど残酷な行為に及ぶこともあります。深い思いやりを示すこともあれば、自分の利益のために他者を傷つけることもあります。

その両方が、人間という存在の中にあります。

結局のところ、人間は生まれながらにして善なのでも、悪なのでもありません。

ただ、人間なのです。

次に誰かに傷つけられ、「人間という存在そのものが、どこかおかしいのではないか」と考えてしまったときには、ひとつ思い出してみてください。

世界全体の善悪を背負い、すべてを裁こうとする必要はありません。

自分にできるのは、まず自分自身と向き合い、自分の心や行動を少しずつ理解していくことです。そして、これほど美しく、同時にこれほど欠点に満ちた世界を見つめながら、それでもなお、思いやりをもって行動することを選ぶのです。

人間の中には、光もあれば、影もあります。

世界からすべての悪を取り除くことはできないかもしれません。それでも、自分自身がどのような人間でありたいのか、目の前の人にどのように接するのかは、日々の選択を通じて問い続けることができます。

善か悪かという問いに、完璧な答えを見つけることよりも、その問いを抱えながら、どのように生きていくのか。

もしかすると、本当に大切なのは、そのことなのかもしれません。

「この世に絶対的な悪も絶対的な善も存在しない。悪の中にも善があり、善の中にも多くの悪が潜んでいる。」

— 遠藤周作

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Jonathan M. Pham
こんにちは、私は自分探しに関心が深い人間です。 10代の頃から、人生について自分自身に疑問を抱き始めました。これには、「自分がやるべきことは何なのか」「本当の幸せや充実感をもたらすものは何か」「自分が歩むことができる道がある中で、どのような選択をすべきなのか」があります。人生を通じて得た体験を共有することを目的として、このブログを作成しました。 私のブログを読んで、より良い選択をし、より充実した人生を送るためのインスピレーションを得ることができれば幸いです。 自分に合ったものだけを取り入れて、残りは気にしないでください。よろしくお願いします。