以前、オンラインの語学クラスに参加していたときのことです。先生がクラス全員に、こんな質問を投げかけました。
「突然1万ドルが手に入ったら、何に使いますか?」
クラスメイトたちは、いかにも夢が広がりそうな答えを次々と挙げていきました。「自分の会社を立ち上げる」「世界中を旅する」「貧しい人たちを助ける」といった具合です。
そして、私の番が回ってきました。深く考える間もなく、すぐに答えました。
「全部、銀行に預けます」
その瞬間、Zoomの画面越しに笑い声が広がりました。先生やクラスメイトたちの間には、どこか期待外れだという空気も漂っていました。どうやら、私の答えはあまりにも地味だったようです。
けれど、そんな反応を前にして、どうにも腑に落ちないものがありました。
あれは、心から思ったことをそのまま答えたつもりでした。何よりも、先々のお金の心配をせず、安心して暮らせることが大切だったのです。何か大きなことを成し遂げなくても、今の生活を穏やかに続けていければ、それで十分でした。
それなのに、なぜ、そんな当たり前の答えが受け入れられなかったのでしょうか。
「どうしてだろう?」
その場で起きていたことの意味がわかるまで、ずいぶん時間がかかりました。
よく考えてみると、先生の質問は、表向きこそ何気ないものでしたが、実際にはお金の使い道を尋ねていたわけではなかったのです。
クラス全体に暗黙のうちに共有されていた期待。それは、何か人を感心させるような答えを披露することでした。ヨーロッパをバックパックひとつで旅する。世界を変えるようなスタートアップを立ち上げる。大規模な慈善活動に乗り出す。そんな、聞く人の想像力をかき立てるような答えが求められていたのでしょう。
私の現実的な答えは、そうした夢物語に水を差してしまいました。壮大な人生の物語を語る代わりに、心の安らぎを選んだことで、意図せず、その場の暗黙のルールを破ってしまったのです。
実存主義の哲学者ジャン=ポール・サルトルは、こうしたあり方を「bad faith(自己欺瞞、あるいは『悪い信仰』)」という概念で論じています。自分自身の本心や自由に向き合う代わりに、他人から与えられた価値観や期待を受け入れ、それに合わせて生きてしまうことです。本当にそうしたいからではなく、目に見えない誰かの期待に応えるために、何かを語ったり、行動したりする。そんな姿も、その一つといえます。
そして、考えてみれば、こうした行動の背景にあるのは、単に人から面白いと思われたい、すごい人だと思われたいという気持ちだけではないのかもしれません。
もっと根深いところには、多くの人が共通して抱えている恐怖が潜んでいます。どれだけ目をそらそうとしても、いつかは向き合わなければならない、死という現実です。
人間は、自分自身がいつか死ぬ存在であることを知っています。ほかの生き物とは異なり、自らの命に限りがあることを意識し、その意味を考えずにはいられません。
その不安に向き合うために、私たちは人生の多くを費やして、いわゆる「不死のプロジェクト」を築き上げようとします。
それは、作品を残すことかもしれません。大きな事業を成し遂げることや、家族を築くことかもしれません。形は違っても、そこには、自分がこの世を去ったあとも何かを残し、自らの存在を死によって完全には消し去られないものにしたい、という願いが潜んでいます。いつか訪れる死を、何らかの形で乗り越え、歴史の中に自分の名を刻もうとしているのです。
📌 記事の要約
- 不死のプロジェクトとは何か: 芸術作品を生み出すこと、大きな事業を築くこと、家族を育むことなど、自分が死んだあとも何かを残そうとする営みです。死という避けられない現実に向き合うための心理的な防衛として働き、自らの存在を象徴的な意味で永続させようとします。
- 人間が抱える根本的な矛盾: 文化人類学者アーネスト・ベッカーによれば、人間は、無限や神のような存在を思い描ける意識を持ちながら、同時に、死を免れない脆い身体を抱えています。この矛盾こそが、人間の生を理解するうえで重要な鍵となります。
- 現代における不死の追求: 不死のプロジェクトは、後世に名を残すといった象徴的な形だけでなく、若さや身体そのものを保とうとする試みにも姿を変えています。また、社会にとって自分が役に立つ存在であり続けようとすることも、その一つになり得ます。
- 有用性に縛られる生き方: 人間の価値が生産性や有用性だけで測られると、常に努力し、成果を出し続けなければならないという重圧が生まれます。その結果、実存的な不安や燃え尽きにつながることもあります。
- 「何かをする」ことから「ただ在る」ことへ: 未来の評価や承認を追い求めるだけではなく、今この瞬間をどう生きるかに目を向けること。何かを成し遂げることだけでなく、存在そのものにも価値を見いだすことが、より深い充実感と、自分らしい生き方につながっていきます。
「不死のプロジェクト」とは何か?
文化人類学者のアーネスト・ベッカーは、著書『死の拒絶』(英:The Denial of Death)の中で、人間の行動を理解するための一つの枠組みを提示しました。
ベッカーによれば、人間は、自分がいつか死ぬ存在であることを自覚できる生き物です。そして、その意識ゆえに、ほかの動物にはない根本的な葛藤を抱えて生きています。
一方では、宇宙の成り立ちを考え、永遠という概念を思い描き、複雑な世界を理解するための思想や理論を生み出せるほど、広大な意識を持っています。
ところが他方では、その意識は一つの身体に宿っています。傷つき、痛みを感じ、年を重ね、やがて朽ちていく、限りある身体です。
無限の世界を思い描ける意識と、死を免れない肉体。この二つを同時に抱えていることこそ、ベッカーが人間の存在における「恐るべきジレンマ」と呼んだものです。
もし、自分の身体が少しずつ衰え、いつか必ず死を迎えるという事実を、四六時中、ありありと意識していたらどうなるでしょうか。きっと、その恐怖に圧倒され、身動きすら取れなくなってしまうかもしれません。ベッドから起き上がることはもちろん、仕事をしたり、何かを創作したり、誰かを愛したりすることさえ難しくなるでしょう。
そんなジレンマと折り合いをつけるために、人間は「不死のプロジェクト」を築き上げます。
これは「カウサ・スイ(causa sui)」プロジェクトとも呼ばれます。ラテン語で「自らを原因とするもの」を意味する言葉です。自分が生まれることを選べなかったように、身体の死を完全に防ぐこともできない。だからこそ、人間は、自らの存在を超えて続いていく何かを生み出そうとするのです。
自分の身体がこの世から消えたあとも、その一部が何らかの形で生き続けるように、いわば自分自身の存在を支える「仕組み」を築こうとします。
「人間は、自らの小ささに耐えることができない。だからこそ、それを何らかの意味へと変換しようとする。」
— アーネスト・ベッカー『死の拒絶』

不死のプロジェクトには、さまざまな形があります。
- 宗教・スピリチュアルな営み: 神や宇宙の秩序といった、自分を超えた存在に生きる意味を見いだすこと。死後の世界や輪廻転生を信じたり、最終的に魂が宇宙と一つになると考えたりすることも含まれます。
- 政治・イデオロギーへの傾倒: 大きな社会運動や国家と自分を結びつけること。革命のために闘うこと、極端なナショナリズムに傾倒すること、特定の政治的理念に人生を捧げることなどが挙げられます。
- 物質・経済的な達成: 莫大な財産を築いたり、巨大な企業帝国をつくり上げたりすること。あるいは、高層ビルに自分の名前を刻み、後世にまでその名を残そうとすることです。
- 創造・知的な営み: ベストセラーを執筆したり、交響曲を作曲したり、歴史を変えるような科学理論を打ち立てたりすること。自分の生み出した作品や思想が、死後も人々に影響を与え続けることを願います。
- 生物学的な継承: 子どもを持ち、自分の血筋や家系を次の世代へと引き継ぐことです。
- デジタル上の足跡: SNSのプロフィールやブログ、動画などを丹念に作り込み、インターネット上に自分の存在を残そうとすること。いつまでも消えないデジタル上の足跡を築こうとする営みです。
こうした営みを通じて手に入れようとするものを、「象徴的な不死」と呼ぶことができます。
自分の存在は、いつか塵に還るだけの一時的な細胞の集まりではない。もっと大きな意味を持ち、宇宙の中で何らかの役割を果たす存在なのだ。そう信じることで、私たちは死という現実に向き合おうとするのです。
不死のプロジェクトに意味はあるのか?
不死のプロジェクトに人生を注ぐことは、多くの人にとって、ごく自然なことに思えるかもしれません。大きな目標を持ち、何かを成し遂げ、後世に名を残そうとする。向上心のある人なら、誰もが考えることではないでしょうか。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
自分が抱いている大きな夢や野心を、少し立ち止まって見つめてみると、どんなことが見えてくるでしょうか。
心から意味のあるものを残したいと願っているのでしょうか。それとも、もっと深いところでは、目を向けたくない現実から逃れようとしているだけなのでしょうか。
その違いを考えるには、行動を突き動かしている心の奥底に目を向ける必要があります。
たとえば、何かを生み出したいという純粋な思いが、愛や創造性となってあふれ出し、その仕事へと自然に向かわせているのなら、それは本当の意味で何かを残す営みといえるでしょう。
作品をつくること自体に意味がある。目の前の仕事そのものが大切だから、時間と労力を注いでいるのです。明日、誰かに称賛されるかどうかは、その動機の中心にはありません。
残念ながら、多くの人がそうした思いだけで行動しているわけではないようです。
本当に好きだから事業を立ち上げるのでも、書きたいものがあるから本を書くのでも、自分らしい生き方を心から楽しんでいるから理想のライフスタイルを追い求めるのでもない。むしろ、それをやめたときに何が残るのか、自分自身と向き合わざるを得なくなるのが怖いのかもしれません。
肩書きや実績、周囲からの評価。そうしたものをすべて取り払ったとき、そこにいる自分を受け入れられるだろうか。何かを成し遂げている自分でなければ、いったい何者なのだろうか。
そんな不安から目をそらすために、私たちは次々と目標を掲げ、自分を大きく見せるような物語を描き続けます。ただ在ることの何気なさや、ありふれた日常の中に身を置くことに耐えられず、未来のどこかに理想の自分を思い描いてしまうのです。
やがて、そこには「到達点への依存」とも呼べる状態が生まれます。「あと一つ目標を達成すれば、きっと満たされる」「もう少し成功すれば、ようやく安心できる」。そう信じて、次の成果を追い求め続けるのです。これは「到達の誤謬(Arrival Fallacy)」とも呼ばれ、目標にたどり着けば幸せになれると思い込んでしまうことを指します。
こうして、私たちは働き続け、努力を重ね、自分が成し遂げることや後世に残すものを誇らしげに語ります。いつか何者かになるために、今この瞬間を費やしていくのです。
その一方で、目の前にある人生を生きることがおろそかになっていきます。
「不死」を追い求めるあまり、心身がすり減っていく。人とのつながりは表面的なものになり、何かを成し遂げても不安が消えることはなく、いつまでも満たされない。
本来は死への恐れを和らげるはずだった営みが、いつの間にか、今を生きる力そのものを奪ってしまうのです。
「現代人は、もはや日常生活の中に英雄的な生き方を見いだせなくなっているように思われる。伝統的な社会では、子どもを育て、働き、礼拝するといった日々の務めを果たすだけで、人々はそこに英雄性を見いだしていた。ところが現代人には、革命や戦争が必要になり、それらが終わったあとも、革命を『継続』させなければならない。聖なるものの次元が影を潜めたことで、現代人はその代償を払っているのだ。」
— アーネスト・ベッカー
不死のプロジェクトに潜む影
本当の自分から目をそらす
ベッカーによれば、人間は自らの脆さや死への恐怖に向き合うことを避けるために、不死のプロジェクトを築き、自分自身の人生における「英雄」になろうとします。
そして、社会はそんな私たちに、あらかじめ用意された「英雄の型」をいくつも差し出します。自分だけの道を切り開くことに不安を感じる人は、文化や社会が価値を認める、既製の役割を選びがちです。
たとえば、こんな姿が思い浮かびます。
- ビジネスの世界で大きな成功を収める経営者
- 貧しさの中でも創作に身を捧げる芸術家
- 自分を犠牲にして人々に尽くす聖人
- 何もかも完璧にこなす理想の親
こうした役割を演じることで、私たちはいつの間にか、自分の生き方を決める自由を集団や社会に明け渡してしまいます。
哲学者マルティン・ハイデガーは、こうしたあり方を支える存在を「世人(das Man)」と呼びました。自分自身で考え、選択する代わりに、「世間ではこう考える」「普通はこうするものだ」という、周囲の人々に共有された価値観に従って生きるあり方です。
何が大切なのか。何に価値があるのか。どんな人生を送れば「成功した」と認められるのか。そうした判断を、自分自身ではなく、社会の基準に委ねてしまうのです。
その結果、自分にしか歩めない人生の代わりに、誰もが価値を認めるような、型にはまった不死のプロジェクトを追い求めることになります。人々から称賛され、認められることで、自分の存在を後世に残そうとするのです。
けれど、そこで忘れられがちなことがあります。称賛を送る人々もまた、自分自身の死への恐怖から逃れようとしている、一人ひとりの人間にすぎないということです。
実存主義の思想から見ると、死から目をそらすために、自分の人生をあらかじめ決められた物語に当てはめてしまうことは、究極的には自己欺瞞につながります。
なぜなら、そうすることで、自分自身を、決められた目的や役割を果たすだけの存在のように扱ってしまうからです。本来、人間は、自分で考え、選び、その過程で自らを変えていくことのできる自由な存在です。それにもかかわらず、あらかじめ用意された役割を演じることで、その自由を見失ってしまいます。
永遠に生き続ける自分の姿を追い求めるあまり、今ここにいる自分自身を生きることができなくなる。そこに、不死のプロジェクトが抱える大きな矛盾があります。
人間の悪と、集団同士の対立の根にあるもの
「人間が引き起こす悪の根源は、人間の動物的な本能でも、縄張りをめぐる攻撃性でも、生まれつきの利己心でもない。それは、自尊心を満たし、自らが死すべき存在であることを否定し、英雄的な自己像を手に入れようとする欲求にある。最善を求める私たちの願いが、最悪の結果を生み出すのだ。
世界を浄化し、完璧なものにしたい。民主主義や共産主義を守り、神の敵を取り除き、悪を根絶したい。人々の涙に曇ることのない純白の理想都市や、千年続く帝国を築きたい。そうした願いが、かえって最悪の事態を招いてしまうのだ。」
— アーネスト・ベッカー
ベッカーの洞察の中でも、とりわけ深く、背筋の寒くなるものがあります。それは、不死のプロジェクトが、人間の悪や集団同士の敵対意識と深く結びついているという考え方です。
不死のプロジェクトは、死への恐怖から心を守るための盾として働きます。だからこそ、それを脅かすものは、単なる意見の違いや価値観の衝突では済まなくなります。まるで、自分自身の存在や命そのものが脅かされているかのように感じられるのです。
異なる文化や宗教、イデオロギーを持つ人々が出会うとき、相手の存在そのものが、自分たちの信じてきた世界観を揺るがすことがあります。自分たちの信念だけが正しいとは限らない。自分たちが大切にしてきた価値観が、唯一の答えではないかもしれない。そうした可能性に直面することは、自分の存在を支えてきた土台を失うような感覚につながりかねません。
ベッカーの考え方に従えば、戦争やジェノサイド、偏見や差別は、単に人間が生まれつき攻撃的だから起こるのではありません。自分たちの信じる価値観や世界観が脅かされているという感覚も、そこに深く関わっています。
自分たちの不死のプロジェクトこそが正しいと証明し、死を超えられるという確信を守ろうとする。そのために、異なる信念を持つ人々を暴力によって征服したり、自分たちの信仰に改宗させようとしたり、罪や責任を押しつけたり、さらには排除し、滅ぼそうとしたりすることさえあります。
つまり、自分たちの存在を守るために築いたはずの物語が、いつしか他者を傷つける理由になってしまうのです。
現代心理学における「恐怖管理理論(Terror Management Theory)」も、こうした現象を理解するための手がかりになります。死を意識したとき、人は自分の文化や世界観、価値体系にいっそう強くしがみつき、それと異なる考え方に対して敵意を抱くことがあります。実存的な不安が、狂信や極端な集団主義へとつながっていく背景には、こうした心理があるのかもしれません。
自分たちの信念や、後世に残そうとしてきたものが脅かされると、人はそれを守ろうと必死になります。そして、何かを守る英雄であろうとする思いが、皮肉にも、他者を傷つけることを正当化してしまうのです。
死への恐怖から逃れ、自分の存在に意味を与えようとして始まったはずの営みが、いつの間にか、人を残酷な行為へと駆り立てる。私たちが英雄になろうとするその過程で、かえって怪物になってしまうこともあるのです。
「今では、人々が自分の考えに賛同する人を増やそうと懸命になる理由がわかっている。それは、単なる人生観などではない。不死を手に入れるための処方箋だからなのだ。」
— アーネスト・ベッカー

現代の富豪たちが追い求める「文字どおりの不死」
「恐ろしいのは、無から生まれ、名前を持ち、自我を意識し、深い内面の感情を抱き、生きたい、自分を表現したいという身を引き裂くほどの渇望を持ちながら、それでも死ななければならないことだ。」
— アーネスト・ベッカー
かつて、不死のプロジェクトの多くは、象徴的な形を取っていました。宗教は死後の世界を約束し、芸術や建築は後世に残る名声や遺産をもたらしました。
ところが、社会の世俗化が進み、科学技術への依存が深まるにつれて、不死を追い求める方法も変わりつつあります。魂を救おうとしたり、作品を通じて名を残そうとしたりするだけではありません。とりわけ莫大な富を持つ人々の中には、文字どおり自分の身体を凍結し、未来へと残そうとする人たちもいます。
その試みには、いくつかの形があります。
- 人体冷凍保存(クライオニクス): 資産家の中には、Alcorのような企業に数十万ドルもの費用を支払い、死後すぐに自分の身体、あるいは脳だけをマイナス196度の液体窒素で保存してもらう人たちがいます。将来、ナノテクノロジーが進歩すれば、再び生き返ることができるかもしれない。そんな可能性に望みを託しているのです。
- 脳のマッピングと意識のアップロード: 一部の億万長者は、脳の神経結合の全体像である「コネクトーム」を保存する研究に資金を投じています。すべてのニューロンのつながりを記録できれば、いつか意識を人工の身体や仮想世界に移し替えられるのではないか。そうした考えが、この分野への投資を支えています。
- 長寿脱出速度(Longevity Escape Velocity・LEV): シリコンバレーの富裕層や起業家たちは、細胞の若返り、バイオハッキング、遺伝子治療などの研究に巨額の資金を注ぎ込んでいます。その究極の目標は、そもそも死を迎えずに済むようにすることです。
そういえば、以前、医療ツーリズムを手がける会社で働いていたことがあります。その会社では幹細胞治療を扱っており、とりわけ、若返りへの驚くべき効果が宣伝されていました。
今でもよく覚えています。会議の席では、その治療の効果について、周囲の人たちが何度も感嘆の声を上げていました。
「信じられますか? こんなに若々しい人が、実はもう〇〇歳なんですよ!」
その治療について語られていたことが、科学的にどこまで正確だったのか。それ自体が気にならなかったわけではありません。ただ、それ以上に興味を引かれたのは、そんな言葉の裏にある心理でした。
50歳の人が25歳のように見えると聞いて、同僚たちが驚きの声を上げる。その反応は、単に見た目の美しさや健康状態を褒めているだけではなかったように思います。心の奥底では、時間の流れに打ち勝ったことを喜んでいたのではないでしょうか。

多くの人にとって、従来の宗教が人生の意味や死への不安に答えを与える力を失いつつある現代社会では、バイオテクノロジーが新たな「世俗的な救済」を掲げています。
そう考えると、現代の長寿研究者やバイオハッカーは、新しい時代の聖職者のような存在になりつつあるのかもしれません。かつては生命の神秘や自然の摂理として受け止められていた老いが、今では治療し、克服すべき「病気」のように扱われるようになっているのです。
けれど、精神的・宗教的な不死のプロジェクトを、生物学的な不死のプロジェクトに置き換えることには、見過ごせない心理的な代償が伴います。
身体を老いから守ることが人生の究極の目標になると、そこには、いわば「肉体を単なる入れ物として扱う問題」が生じます。身体は、自分という存在そのものではなく、常に管理し、性能を高め、異常がないか監視し続けなければならない乗り物のように見えてくるのです。
そして、そんな生き方がもたらす影響は、決して小さくありません。
- 過剰な警戒と疑心暗鬼: 顔に刻まれた一本のしわ、少し落ちた体力、白髪の一本一本。いずれも生きていれば自然に起こる変化ですが、不死を追い求める人にとっては、自分の計画が失敗に向かっていることを示す危険信号のように感じられてしまいます。
- 数値への執着: スマートリングや各種モニターを身につけ、睡眠時間や血糖値、心拍変動などを細かく記録し続ける人もいます。健康管理そのものは、適度に行うのであれば問題ありません。けれど、死から逃れようとするあまり、あらゆる数値の最適化に取りつかれてしまうと、一晩よく眠れなかったことや、誕生日にケーキを一切れ食べたことさえ、長寿を脅かす重大な問題に思えてきます。
- 今この瞬間の喜びを失うこと: 将来に向けて細胞の状態を最適化することばかりに意識が向いていると、友人と何気なく笑い合う時間や、今日という日の午後に海辺で過ごすひとときを、ただ素直に楽しむことが難しくなっていきます。
皮肉なのは、どれほどの資金を投じても、どれほど幹細胞治療を受けても、健康によいとされる青汁を飲み続けても、身体の内側で刻まれる時間そのものを止めることはできない、という点です。
外から見える老化を遅らせることはできるかもしれません。それでも、死という現実がなくなるわけではないのです。
どれだけ若さを保とうとしても、どれだけ身体を管理し続けても、いつかは死を迎えます。その事実だけは、今のところ、どれほどの富や科学技術をもってしても覆せないのです。
「人生に永続性はない……。
空を背景に、葉を落として裸になった木の姿を見たことがあるだろうか。なんと美しいのだろう。枝の輪郭がくっきりと浮かび、その裸の姿には詩があり、歌がある。葉はすべて落ち、木は春を待っている。春が来れば、再び無数の葉が木を満たす。そして時が来れば、葉は落ち、風に吹かれて去っていく。それが人生というものだ。
ところが、私たちはそうしたあり方を望まない。子どもや伝統、社会、自分の名前、ささやかな美徳にしがみつく。永遠に続いてほしいと願うからだ。そして、それゆえに死を恐れる。慣れ親しんだものを失うことが怖いのだ……。
満足を与えてくれるものは、すべて永遠であってほしい。自分の地位も、人々に対して持つ権威も、いつまでも続いてほしいと願う。私たちは、ありのままの人生を受け入れようとしないのだ。」
— ジッドゥ・クリシュナムルティ
なぜ人は不死に執着するのか?
「人々が死を超えようとする方法を決めるのは、社会自身でありたいのだ。社会は、その人の『カウサ・スイ(自らを原因とするもの)』のプロジェクトが、社会で標準とされるプロジェクトに合致する場合に限って、それを認める。」
— アーネスト・ベッカー
以前から、ずっと不思議に思っていることがあります。なぜ、人はこれほどまでに美容にお金をかけるのでしょうか。なぜ、若さを保つことに強いこだわりを見せる一方で、老いていくことをこれほど恐れるのでしょうか。
少し、社会が人生のさまざまな段階をどう見ているか考えてみてください。若く、美しいとされる女性と、身体が衰え、誰かの助けを必要とする高齢の女性。両者に向けられる視線は、果たして同じでしょうか。
少し残酷な言い方になるかもしれませんが、社会は前者に惹かれ、後者からは目をそらしがちです。
こうした違いについて考えていると、単なる美意識の問題では片づけられない何かがあるように感じます。その背景には、現代社会に深く根づいた、人間の価値を測る一つの物差しがあるのではないでしょうか。
それは、「有用性」です。
進化生物学の視点からも、現代の資本主義の仕組みからも、人間の価値はしばしば、何ができるか、何を生み出せるか、次の世代を残せるかといった観点から評価されます。
- 進化生物学的な観点: 若さや活力は、子孫を残す能力や生命力の高さを示すものとして捉えられます。生殖や生存という観点から見れば、若く活力に満ちた状態は、生命が最も力を発揮する時期とみなされます。
- 資本主義的な観点: 人間は、経済活動を支える労働力であると同時に、商品やサービスを購入する消費者でもあります。働き、モノやサービスを生み出し、消費し続ける限り、経済の中で価値を持つ存在として扱われやすいのです。

社会が若さをもてはやし、衰えから目をそらすとき、そこでは人間を有用性によって評価する考え方が働いています。
年を重ねた人も、慢性的な病気と向き合う人も、あるいは以前のように働き続けることが難しくなった人も、そうした物差しでは、次第に価値の低い存在として見られてしまいます。
ここで見過ごされているのが、人間の尊厳という問題です。
本来、人間の尊厳とは、年齢や財産、生産性に関係なく、ただ存在しているということそのものに認められる価値のはずです。ところが、有用性を重視する社会では、その尊厳さえも、条件付きのものとして扱われかねません。どれだけ子孫を残せるか、どれだけ働けるか、どれだけ美しく見えるか。そんな基準によって、人間の価値が測られてしまうのです。
では、いつか必ず、何かを生み出すことが難しくなったとき、いったい何が起こるのでしょうか。
もし人間の尊厳が有用性に依存しているのなら、それは失われる可能性のあるものになってしまいます。突然の病気や障害によって、これまで当たり前にできていたことができなくなった途端、人間としての価値まで失われたかのように感じてしまうかもしれません。
これこそが、有用性という物差しの悲劇です。
何かを成し遂げていなくても、誰かの役に立っていなくても、ただ生きているだけで十分なのだと思える心の安らぎ。それを、この考え方は私たちから奪ってしまいます。
まるで、森の価値は木材として利用できるかどうかで決まるかのようです。そこに森が存在することそのものの豊かさや、木々が生い茂り、さまざまな生命が息づいていることの意味は、見過ごされてしまいます。
けれど、時間の流れを止めることは誰にもできません。どれだけお金をかけても、どれだけ丁寧に肌を手入れしても、どれだけバイオハッキングに取り組んでも、老いや死を完全に遠ざけることはできないのです。
永遠に若く、永遠に役に立ち続けることを前提に不死のプロジェクトを築くのなら、それは最初から勝ち目のない闘いなのかもしれません。
「現代社会は、成果を上げることを重視する社会だ。そのため、成功し、幸福そうな人々を称賛し、とりわけ若者をもてはやす。それ以外の人々の価値は、ほとんど顧みられない。
その結果、人間の尊厳という意味での価値と、有用性という意味での価値との間にある、決定的な違いが曖昧になってしまう。
この違いを理解せず、人間の価値は現在どれだけ役に立つかによって決まると考えるなら、よく考えてみてほしい。自分の中の一貫性が欠けているという理由だけで、ヒトラーの計画にならい、社会的に役に立たなくなった人々を安楽死させることに反対しているにすぎないことになる。
つまり、老齢、治癒の見込みのない病気、精神機能の衰え、その他どのような障害によるものであれ、社会にとって有用でなくなった人々を、『慈悲』の名のもとに殺すことを主張しない理由が、単なる自己矛盾にしかなくなってしまうのだ。」
— ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』
不死のプロジェクトを捉え直す:「何かを成し遂げる」ことから「ただ在る」ことへ
「英雄的な生き方をしているという感覚を得るために、自分が何をしているのか。それを自覚することこそ、人生における自己分析の最大の課題である。」
— アーネスト・ベッカー
有用性という物差しが私たちを縛り、文字どおりの不死を追い求めても決して勝てないのだとしたら、そろそろ、生きることの価値そのものを捉え直す必要があるのではないでしょうか。
「何かを成し遂げる人間(Human Doing)」から、「ただ存在する人間(Human Being)」へ。人生の価値を、何をしたかということだけで測るのではなく、どのように在り、どのように生きているかという視点へと移していくのです。
何かを成し遂げることに自分の価値を託していると、人生は、使うたびに残量が減っていくバッテリーのように感じられます。
一年が過ぎるたびに、若さが失われ、体力が衰え、社会の中での存在感も薄れていく。そんなふうに、時間の経過を何かが減っていく過程として捉えてしまいます。
その一方で、若い人を見ると、うらやましく感じることがあります。まだ何者にもなっておらず、これから何にでもなれる可能性に満ちているように見えるからです。
けれど、少し立ち止まって考えてみると、若さや可能性をそれほど特別視することにも、どこか無理があるように思えます。
可能性は、あくまでも可能性にすぎません。まだ現実になっていないものだからこそ、人生の予測できない出来事によって失われたり、思いがけない形で閉ざされたりすることもあります。
まだ何も刻まれていない大理石の塊を、すでに完成した彫像よりも価値のあるものとして崇めるようなものです。
可能性にばかり価値を見いだしていると、いつか訪れる未来に意識が向き続け、今この瞬間を生きることが難しくなってしまいます。何を選ぶべきか決められず、まだ起きてもいないことを心配し、目の前にいる人とのつながりや、ただ存在していることの喜びから、少しずつ遠ざかっていくのです。
一方、人生の土台を「何を成し遂げたか」ではなく、「どのように在るか」ということに置くと、老いの見え方も大きく変わってきます。
たとえば、身の回りのことを一人でこなすのが難しくなった高齢者。何十年も働き続け、手にその年月の痕跡を刻んだ退職者。あるいは、子どもを育てることに若い時期の多くを費やしてきた親。
有用性を基準とする社会では、こうした人たちは「全盛期を過ぎた人」と見なされるかもしれません。
けれど、その人たちには、もっと確かなものがあります。実際に生きてきたという事実です。
誰かを愛し、苦しみを経験し、それを乗り越え、難しい選択を重ねながら、自分なりの意味を見いだしてきた。その一つひとつが、かけがえのない人生の一部になっています。
その人の人生は、すでに一つの作品として形を成しています。あるいは、完成に近づいていると言ってもいいでしょう。
経済が大きく変化しても、社会の価値観が移り変わっても、ましてや死が訪れたとしても、その人が実際に愛し、経験し、生きてきたという事実まで、なかったことにはできません。
それなら、いつまでも「何かを成し遂げ続ける」状態に身体をとどめようと、多額のお金や膨大な心のエネルギーを費やす必要はないのかもしれません。
それよりも大切なのは、日々の暮らしの中で、「在ること」を少しずつ積み重ねていくことではないでしょうか。
本を書くのは、いつか図書館の壁に自分の名前を刻むためではなく、今日、言葉を紡ぐことそのものに喜びを感じるから。
子どもを育てるのは、自分が果たせなかった夢や満たされなかった思いを託すためではなく、一人の人間として、その子がその子自身の人生を歩んでいけるように願うから。
人生は、いつか不死を手に入れるためのオーディションではありません。
何者かになるための準備期間でも、後世に名を残すためだけの舞台でもありません。
人生は、今ここにあります。
「人間は、文化の枠内にとどまる英雄性の限界を突き破る。日常の社会秩序の中で英雄を演じるよう仕向けていた『人格の虚構』を打ち壊すのだ。そして、そのことによって、無限へと自らを開き、宇宙的な英雄性、ひいては神に仕える可能性へと開かれていく。」
— アーネスト・ベッカー

それでも、不死には価値があるのか?
ここで、少し想像してみてください。
明日、シリコンバレーのバイオテクノロジー企業が、ついに老化を止める方法を発見したとします。そして、老化の進行を無期限に止められる薬を、私たちに差し出します。
自然に死を迎えることは、もうありません。ただし、一つだけ例外があります。生き続けることがあまりにも重荷になったと感じたときには、自分の意思で人生を終えることもできます。
その薬を飲んでみたいと思うでしょうか。
おそらく、多くの人は反射的に「もちろん」と答えるのではないでしょうか。十数か国語を自在に操れるまで学んだり、人類が宇宙へと進出していく姿を見届けたりする。大切な人が年老いて亡くなる悲しみも、もう味わわずに済むかもしれません。
そんな人生を想像すると、心が躍るのも無理はありません。
けれど、最初の高揚感が落ち着いたあと、もう少し深く考えてみるとどうでしょうか。死を取り除くことは、かえって、人生を味わい深いものにしている何かまで奪ってしまうのかもしれません。
経済学には、希少性が価値を生み出すという基本的な考え方があります。
夕暮れの景色があれほど心に響くのは、いつまでも同じ姿で留まっていてくれるわけではないからではないでしょうか。ほんのわずかな時間で、空の色は移り変わり、やがて夜が訪れます。
旅行が特別な思い出になるのも、いつか荷物をまとめ、日常へと帰らなければならないからです。
もし、使い切れないほどの時間が与えられたら、何かをしようとする切実さは、少しずつ失われていくのではないでしょうか。
人生の意味は、限りがあるからこそ生まれる部分もあります。自らの命に終わりがあるという意識が薄れれば、先延ばしにすることが当たり前になってしまうかもしれません。
- 「あの人に愛していると伝えるのは、あと10年先でもいい」
- 「本当にやりたいことに挑戦するのは、あと1000年経ってからでいい」
そんな言い訳も、無限の時間があるなら、もっともらしく聞こえてしまいます。
最初は祝福のように思えた、決して終わることのない人生。それがいつしか、逃れようのない退屈へと変わってしまう可能性もあるのです。
結局のところ、私たちが生み出す芸術作品や、誰かに向けるささやかな親切、世の中をよりよくするための目立たない貢献。そうした「象徴的な不死」の営みが美しいのは、私たちがいつまでもここにいられるわけではないからこそ、なのかもしれません。
それらは、宇宙に向けた、それぞれの人なりの小さなメッセージのようなものです。
「ここに生きていた。そして、この世界を大切に思っていた」
もし永遠に生きられるのなら、そもそも、そんな言葉を残す必要さえなくなるのかもしれません。
おわりに
あのZoomのクラスで、ただ「お金は銀行に預けたい」と答えた私に、クラスメイトたちが期待外れだという反応を示したことを思い返すと、ふと、ハリー・ポッターの物語に登場する「三人兄弟の物語」を思い出します。
物語に登場するのは、アンティオク、カドマス、イグノタスという三人の兄弟です。彼らは、死そのものから、それぞれ望むものを一つずつ与えられます。
長兄のアンティオクが求めたのは、「ニワトコの杖」でした。絶対的な力と支配を象徴する、最強の魔法の杖です。彼は誰にも負けない力を手に入れ、他者を圧倒しようとします。しかし、その傲慢さが仇となり、最終的には命を落とします。
次兄のカドマスが求めたのは、「蘇りの石」でした。失った人を取り戻し、過去を手放せずにいる心や、自然の摂理に逆らおうとする執着を象徴するものです。彼はその力で亡き人を呼び戻そうとしますが、やがて心を病み、最後には自ら命を絶つことになります。
一方、末弟のイグノタス・ペベレルが求めたのは、「透明マント」でした。
世界を支配する力でも、死者を取り戻す力でもありません。宇宙の摂理に逆らうことも、世間に名前を覚えてもらうための記念碑を築くことも望みませんでした。
ただ、破壊をもたらす力から身を隠しながら、大切な人たちと静かに人生を歩んでいくこと。そして、最期のときが訪れたら、マントを脱ぎ、死を「旧友」のように迎えること。それが彼の望みでした。
この物語には、生き方を考えるうえで大切な示唆があるように思います。
歴史に名を残した多くの哲学者やスピリチュアルな思想家たちもまた、自分を大きく見せるための記念碑を築くことより、エゴへの執着を手放し、現実そのものと深くつながることの大切さを説いてきました。
社会から「何者か」と認められようとすることをやめたとき、初めて、肩書きや立場に縛られず、人々とありのままに向き合えるようになるのかもしれません。
不死のプロジェクトを手放すことは、人生そのものを諦めることではありません。むしろ、その反対です。
いつか自分の名前を歴史に刻むことばかりに気を取られず、今ここで誰かに優しくすること、目の前の人と心を通わせること、世界をありのままに見つめることに、時間と力を注げるようになります。
そして、そうした日々の営みこそが、自分がこの世界を去ったあとにも残り得る、本当の意味での遺産なのではないでしょうか。
だから、「ただ心穏やかに暮らしたいだけ」と口にして、誰かに笑われたとしても、気にする必要はないのかもしれません。
その言葉が、自分自身の本心から出たものなら、それで十分です。
周囲がまだ、何者かになろうとして夢の中を歩き続けているように見えるとき、自分はようやく、今ここにある人生に目を向け始めたのかもしれないのですから。
「真の死の支配者は、『死』から逃げようとはせぬ。死なねばならぬということを受け入れるとともに、生ある世界のほうが、死ぬことよりもはるかに劣る場合があると理解できる者なのじゃ。」
— J・K・ローリング
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