「屋根裏部屋の窓から世界を見つめる無神論者の方が、自分自身の誤った神像に囚われている信者よりも、神に近いことがある。」
― マルティン・ブーバー
ある日、弟子が師匠の元へやってきて、こう尋ねました。
「師匠はいつも、神がお創りになったものにはすべて意味があり、私たちはあらゆるものから学びを得ることができると教えてくださいます。でも、ひとつ教えていただけませんか。なぜ神は『無神論者』をお創りになったのでしょうか? 神の存在を否定する人たちに、いったいどんな役割があり、私たちは彼らから何を学べるというのでしょうか?」
師匠は穏やかに微笑んで、こう答えました。
「神が無神論者を創ったのはね、私たちに『本当の優しさ』についての大切な教えを授けるためなのだよ」
弟子は首をかしげました。
「それは、どういうことでしょうか?」
師匠は静かに語り始めます。
「誰かが助けを求めて君の元へやってきて、『お腹が空いて倒れそうだ』『もう後がない』とすがりついてきたとしよう。その時、『信仰を持ちなさい。神に祈れば、きっと道は開けるから』なんて言葉をかけてはいけないよ。自分が手を差し伸べる責任を、天に丸投げしてはいけないんだ。
むしろその瞬間は、この宇宙に神など存在しないかのように行動するんだ。君自身が『無神論者』になるのだよ。奇跡を起こしてくれる天の父もいなければ、神の介入もない。自分がこの人に食事を与え、助けなければ、他に誰も救う者はいないのだと。相手の命の重みをすべて自分の肩に背負い、ただ己の心の中にある思いやりだけを頼りに、行動を起こすんだよ」
出典:マルティン・ブーバーによる『Tales of the Hasidim』
「創造とは、神が自らを拡大する行為ではなく、退くこと、放棄することです……神は私たちのためにご自身を否定し、私たちが神のために自分自身を否定する可能性を与えました。私たちの応答、私たちのこだま――それが拒まれる可能性を含んでいるとしても――こそが、創造という愛の愚行を正当化し得る、ただ一つの根拠です。
このような放棄、意志による距離、神が自ら姿を消すこと、地上における神の見かけ上の不在と、密かな現前を受け入れる宗教……そうした宗教こそが真の宗教です。それぞれ異なる言語へと訳された『大いなる啓示』なのです。
神性を、力を持つところでは命令する存在として描く宗教は偽りです。それが一神教であったとしても、それは偶像崇拝なのです。」
― シモーヌ・ヴェイユ
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